沈黙 サイレンス

私は宗教が苦手だ
いや、宗教そのものは興味があるし、嫌いではない
聖書が真理をついていると深く頷くこともあれば、
仏教の聖典を読むこともある

宗教にすがる人の気持ちも理解できる
生きていけないくらい辛いことは
世の中にいくらでも存在するから
けれど、同時にそういう生身の優しい弱い気持ちは危険だ
鋭い嗅覚を持った人が群がり、いくらでも利用されてしまう
そういう危険をはらんでいるものだと思っている
私の叔母は第一子の子育てが困難に感じ、
逃げるように四人も子供を産んだ挙げ句、
新興宗教にはまった
そこでの奉仕が子供を救うと信じさせられ、
家をほったらかして、家族でない誰かのために働いていた
彼女は今も生きているし、
子供たちも無事に生きている
だから良かったのかもしれない
けれど、それで得した誰かがいることに私は憤る

2時間40分程度のこの映画を観るのは
ものすごく困難だった
途中で何度も止めたくなった
だってそもそも宣教師の二人も搾取される側だ
拷問に心痛める彼らは、普通の優しい人たちで
自分達が来た本当の意味をわかっていない
だから、奉行の井上らと会話は常に成り立たない

拷問シーンは目を背けたくなるようなものばかりだったけれど、
それ故に、そうまでして盲信する彼らの怖さや
そこしか拠り所のない辛さが浮き彫りになり、
徐々に取り締まる側にも理があるように見える構造だ
井上奉行は元キリシタンだったそうで、
関わる全員が利用されているように見えただろう
私と同じような気持ちだったのだろうか

踏み絵を子供の頃学習した時、
踏んでしまえばいいのに、と私は思った
踏ませている側もそう思っていたらしい
パフォーマンスだから
これを許していないという公のスタンスが必要だった
けれど心の中の信仰は、誰にも見せられないし、変えられない
十字架がなくとも、イエスを踏んでしまおうと
許す、公にやってくれるな、という意味だった

キチジローはキリスト教からすると、
ズルい愚かしいものとして描かれる
告悔を免罪符に、何度でも踏むし、裏切る
自分を責め、何度でも許されようとする
けれど、彼は信仰を捨てなかった
自殺行為ともとれる殺された人々の方が偉いだろうか
否、私にはこちらが正しい信仰の仕方に思える
信仰のために殺しあったり、死んでいくなんて狂っている
宗教は生きるためにあるべきなのだ

私は「搾取」というキーワードがとにかくダメだ
許せない、と勝手に憤ってしまう
弱っている優しい人間から何かを奪おうなんていう世界は
うんざりだ
人間は平等であるべきだと強く思う

入り込みすぎた私は長崎に行きたいと思ったのだけど、
この映画は台湾でロケされたそうだ。
辛いけれど、この奥深い、複雑なストーリーを
もう少しだけ噛みしめていようと思う























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