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(日記)趣味程度の、ものづくりの欲求がある人 / 「無駄づくり」が大好き / 癒しとしての趣味・ものづくり

 小さい頃からものづくりが好きだった。保育園のお昼寝時間を抜け出して先生たちの元へ行き、お手玉の生地を見よう見真似で縫い合わせる時間が好きだった。どんな平面の縫い合わせがどんな方向に強い立体物を作るのかを考えるのは楽しかった。田舎の広い家と庭全体を使って、10-30体ほどの人形たちを使った群像劇を考えるのが好きだった。そこには何やら自分なりのワールドビルディングがあったようである。(人形たちは広い外の世界に憧れるが、あくまで"人形"として生を受けたため、実際に野外に出るとたちまち風化して半永久の命を失ってしまうという話をよくやっていた気がする。人形の国の掟を破って外の世界に飛び出した若者が、美しい花がすぐに萎れることを見出して恐れ、外の世界に失望して帰ってくるという話があった。かわいくないおままごとだな…。)
 しかし大人になった今、ものづくりを仕事にしたいか?と言われるとNOである。もとより創造的な遊びのほとんどが一人遊びの一部だったこともあり、自分の内面の世界を守るために、あえて自己満足の産物として線を引いていたのだろう。
 私は小学生あたりからインターネットが普及してきた世代なので、中学生の頃にはSNSや投稿サイトでプロ・アマチュア問わず色々な人の創作物に触れ、また創作物が大勢の人の目に晒されることの恐ろしさを感じる機会に恵まれていた。最近では個人が創作物を簡単にマネタイズすることができるサービスが次々登場し、誰でもプロとして対価を受け取れるようになった。以前、戯れにオリジナル生物のLINEスタンプを作ってみたことがあったが、これも自分と友達用くらいのもので、できればあんまり売れないでくれ…と思って作っていた。プロとして大勢の人から対価を受け取るのであればそれ相応のクオリティで作品を作らねばならないし、自分が何を作りたいかよりも何が求められているかを前提に調査をしないといけない、と考えてしまう。なんというか、不器用かつ真面目な性格なせいで、創作をしている時くらい不真面目になりたいのかもしれない。むしろ、不真面目な自分を解放するためのテキトーな創作なのかもしれない。

「無駄づくり」が大好き

 そんなことを考える中で、自分の好みにドストライクで大好きになったクリエイターがいる。「無駄づくり」の理念を掲げて謎マシンや謎グッズを作り続けている藤原麻里菜さんである。私が彼女の作品に初めて出会ったのはTwitter (X) の投稿。藤原さんは、有用で生産的であることが求められ続ける世の中に対するアンチテーゼとして、マジで使い所とかはないけれど楽しいモノを開発しているらしい。無駄であることを肯定的に捉えた創作物を見ていると、「生産的な趣味」にとらわれた心がほぐれていくよう。個人的最近のヒットは「オンライン飲み会緊急脱出ボタン」。

 自分の表情の停止はマニュアル操作なところがめちゃくちゃ好き。それっぽい瞬間を捉えて停止するユーザーの技能が求められる。
 藤原さんの作品は、総じて力の抜き方が上手い。もし私が同じコンセプトで何かを作れ、と言われたら、「無駄とは何か?」などと考えすぎて、「無駄のない無駄」みたいな本末転倒コースまっしぐらだろうと思う。その点藤原さんは自身が掲げる「無駄」に支配されることなく、ほどほどの距離感で作品を作っているように思う。これはすごいことである。

癒しとしての趣味・ものづくり

 ものづくりの趣味といえば、最近 the New Yorkerで読んだ記事に興味深いものがあった。大きいストレスやショッキングな出来事に紐づく鬱々とした状態から逃れるために、キルティングをし続ける人たちの話。

“I don’t know why it was,” he told me. “I thought about a quilt.”

Piecing for Cover, from the New Yorker issue March30, 2024.

 ストレスに直面した人の心の働きはすごい。自分を守るために、ある時は記憶を歪め、ある時は納得できる説明を探し、またある時は、キルティングのような、心を忙しくするための手作業に行き着く。適度な集中と、脳と手先の連動とを要求する手芸や工芸は、自分を傷つけると分かっていても絶えずタイムラインを更新し続けてしまうような状態の心には特効薬らしい。

 私は、大学に入学してからというもの、学生としての限られた時間を「有効に」「建設的に」使わなければいけないというプレッシャーを自身にかけて生活をしてきた。自分の将来の業績やスキルの向上につながらないことに時間を費やすのがつらく、なんなら罪悪感を感じる状態というのは、多くの先輩学生 (特に大学院生) でよく見てきた。これが最近私にも訪れ、ちょっとしたバーンアウトのような状態になってしまい、ひたすら小説や好きな雑誌の寄稿記事を読み続けたりしている時間が増えた。そこで知ったのだが、この現象はあるあるすぎて名前がつけられているらしい。その名もGraduate Student Guilt (GSG)。なんだか語呂がいい。

 先日、ScienceのCareersのコーナーにて見つけたのが、Ph. Dを取得するまでにGSGに悩まされ、心身の健康を崩した人の話。

To make it through my Ph.D., I had to escape ‘grad student guilt’ | Science | AAAS
https://www.science.org/content/article/make-it-through-my-ph-d-i-had-escape-grad-student-guilt

 GSGの特徴として、例え心理療法や通院などを勧められる状態になっても、「通院にかかる時間で研究を進めないと…」と考えてしまう、ということが述べられていて、本当にその通り…と思った。

GSG doesn’t want you to work on your mental health; that’s an hour a week you’re not in the lab.

Will Hart, To make it through my Ph.D., I had to escape ‘grad student guilt’, Science, 2 May, 2024.

 彼の心の回復のために役立ったのは、しばらく放置していた趣味のロッククライミング。ロッククライミングは何を生み出すわけではないし、業績リストにも載らない。それでも、彼がデータを生み出すロボットではなく、一人の人間として、生きるためにやる趣味だという。
 趣味は無駄でいい、というか無駄な方がいい。別に誰にも理解されなくていいし、Facebookのページを彩らなくてもいい。このくらいの不真面目な心持ちがあった方が、趣味って楽しいのです。

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