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[本と日記]きょうだいの類似性と夢、パラレルワールドの私 (夜のピクニック、Klara and the sun、Tomorrow, and Tomorrow, and Tomorrow)

 本ばかり読む生活をしていると、出来事に対する考えの中に読んだ本のことを思い浮かべたり引用したりということが日常的になってくる。今回は、読んだことのある本の思い出しをいくつか含む形で日記をつけてみる。

姉の夢の話を聞く

 見たばかりの夢について話す相手がいることは幸せだと思う。話した方も話された方も日中にはどんな話だったか忘れてしまうのだが、夢という意外にもパーソナルでとりとめのない内容を、朝起きて間もなく、遠慮せずに話すことのできる人がそばにいるのは豊かなことだ。
 姉の家に泊まった翌朝、モソモソと起き出したまま、寝ぼけた会話の中で聞いた姉の夢の話が興味深かった。姉曰く、「母性という概念に追いかけられる夢」。これが、私が繰り返し見る悪夢に全くそっくりなのであった。夢の中の自己は、ある時は若いビジネスマン、あるいは熊みたいに大きな男性、幼い子供、またある時は人の形をしたロボット…と色々バリエーションがあった。「母性という概念」の方もそこそこな多様性があり、ある時は若い嫁さん、別の日には母親のような正体不明の何か、またある時は実家の「家そのもの」が、夢の中の私を繰り返し捕まえ、支配しようとしてくる。この夢との付き合いも10年近くなる。最近ではあまり見なくなったが、何かとストレスを抱えている時期は毎晩のように頭の中にやってきた。
 さらに興味深いのが、私と姉の夢の共通点として、必ず逃走のスタート地点が田舎にある実家である、というところ。現実と同じ故郷の地理に従ってどこまでも逃げなくてはならない。結構な田舎にある家なので、最寄りの交通機関までの道のりは遠く、逃げ込める隣人の家も少なく、どうにか自分の足で逃げなければならない、というところも共通しているようである。私と姉は、悪意こそなくとも何かと苦労することのある貧しい家で育ったので、とにかく生まれ育った環境から逃げたいという欲求は根底にあってもおかしくはないが、それにしても全く別の個人がこんなによく似た夢を見るものか。

きょうだいの中にパラレルワールドの自分を見る

 私と姉はどちらも女性として生を受けた姉妹だが、私はこの間柄をあえて「きょうだい」と呼ぶのが好きでやっている。恩田陸さんの「夜のピクニック」では、登場する異母兄妹(姉弟)が、どちらが本当に"上の子"かわからないし、普通の家族の形とは異なる呼び名としてあえて「きょうだい」と表現されていた。「きょうだい」という呼び方には、それぞれが独立した個人でありながら、単純な家族関係とは別の、何らか運命共同体のようなシンパシーが感じられる気がする。

「歩行祭」のモデルになった「歩く会」を高校在学中3回経験した。
時間が経つと痛み苦しみを忘れ美しい思い出だけが美化されて残る謎の現象がある。
イベント効果でカップルが急増する「マジック」なる現象もある。
マジックはマジックなのでイベント後みんな別れる。

 私と姉は似ているところといえば体の大きさくらいで、見た目も趣味も興味もこれといって共有するところがない。しかし、生まれた時代が数年ずれているとはいえ、同じ環境に生まれ、生きぬいてきた唯一の存在として、他人として考えることはできない。大学からは、同じ理系とはいえ本格的に専門分野も居住地も別々になり、いよいよ各々の人生に分岐していったという感じがした。それでもやはり、「もし自分があの形質を発現していたら」「もし自分が数年早く生まれたら」「もし違う分野に興味を持っていたら」「もし違う人に出会っていたら」の無数の分岐を辿ったどこかに、姉の人生があったのかも、と考えることがある。この話は、別に姉の個人としての独立を脅かすものではない。Kazuo Ishiguroの"Klara and the Sun"では、人間がその人であることの最も核心的な要素として、その人の辿ってきた個人的な歴史が提示されていた。全ての原子が入れ替わる流動的な体を持つ私たちは、流れつつも確かに連続した瞬間の積み重ねによって、換えの効かない個人となる。一つ一つの分岐の積み重ねが個人を定義づけるなら、パラレルワールドの自分は自分でありながら別人であるし、私と姉もおそらく、世界で一番類似した可能性を持って生まれた別人なのだろう。

Kazuo Ishiguroの作品で一番好き…と言いたいけど、他の作品にも同じことを言っていた気がする。
浮気性の読者。

 そういえば、この前読んだGabrielle Zevinの"Tomorrow, and Tomorrow, and Tomorrow"に出てきた複数人のAnna Leeたちも、こういう意味でのパラレルな存在だったのだろうと思う。Samの母のAnna Lee、Marxの母のAnna Lee、そしてビルから飛び降りて死んでいったAnna Leeは、人種と土地と時代をどこか共有した、IFの自分だったのかも。Samの母が他のAnna Leeたちに対して抱いた親近感と同情は、彼女たちをどこか、別人でありながら自分自身として捉えたゆえの、痛みも苦しみも知るが故の、特別な感情である。自分にもその気持ちは少しわかる。

作中でMarxがSadieと根津神社を訪れるシーンがある。
日本初旅行の人を根津に連れて行くMarx、センスありすぎ。そりゃモテる。

 姉には色々と感謝することが多い。お互いにプライベートには踏み込みすぎない友人くらいの関係性をいい感じに続けている。来年から私も関東に住むことになり、今後はもう少し頻繁に遊べると思うので楽しみ。自分だけのものにしておきたいのでここには書かないが、姉にある言葉をもらってから、自分はずっとこの人の味方でいようと思うことがあった。きょうだいは比類するものなく近く、それゆえに異なる輪郭を肌で感じ、何とも不思議な関係である。複数のAnna Leeたちがそうであったように、おそらくそこには古典的な血のつながりは必要なく、核はもっと別のところにある。


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