見出し画像

連載「フィービーとペガサスの泉」④

第Ⅰ部  ホテルヴィクトリアと「人形の間」

4 開かれた扉

 クリスティは最上階の南端にある部屋の扉をそっと開いた。それはロイド姉妹の母、アリスの部屋で、遥か真下には「人形の間」が位置していた。残念ながら、アリスはフィービーが生まれてすぐにこの世を去ってしまっていたが、それから7年が過ぎた今でも、部屋は当時のまま大切に残されていた。
 いまだにアリスの面影が色濃く残る思い出の部屋に、夕闇が訪れていた。微かに揺れるレースのカーテンの向こうには、生まれながらの病気のため、生涯のほとんどにおいて外出が出来なかったアリスが、とりわけ愛していた夕暮れのインナーハーバーが見えていた。

 「みんなはどう思う? 私は誘拐事件を起こすべき? それとも新しいオーナーさんに頼んで雇ってもらうべき?」
懐かしい声がクリスティの耳に飛び込んできた。
「ぼくは思い切って誘拐事件をでっちあげるべきだと思うね。そうして長いこと見つからないように、ホテルのどこかに隠れているんだ」
「だめよ。そんな見えすいた計画。フィービーがたくらんだってすぐにわかってしまうわ」
「じゃあ、このホテルを奪われた奴の下で働けっていうのか? フィービーはまだ7歳なんだぜ。いじわるなんかされたらどうするんだよ?」

 クリスティは微笑んだ。誰もいないはずの部屋で、どうやら熱心な会合が続いているようだ。本当ならまだ幼さの残る少し高めの声が、不自然に低くなったり、大人びた訳知り顔の口調になったり。

 一体ひとりで何役をこなしているんだろう? 

 差し迫った状況とは言え、何だかおかしさを覚えながら、クリスティは美しく整えられたベッドのそばに腰を下ろし、分厚いギャザー仕立てのベッドスカートをそっとめくりあげた。暗闇の中で、懐中電灯の頼りない光に照らされたフィービーの横顔が浮かび上がった。床に横たわったフィービーは両手でくまのぬいぐるみを抱き上げ、一人で熱心に話し続けていた。周囲にもたくさんのぬいぐるみ達が並べられている。いつものように、部屋中の友人を総動員したのだろう。フィービーの今後を左右する大切な会合の様子を、みんなが真剣に見守っている。

 「じゃあどうするんだよ? 誘拐事件のほかにいい案でもあるってのかい?」
追い詰められたように言ったくまの言葉の後、ふと会話が途切れた。しばらして、フィービーがため息交じりに呟いた。
「誘拐かぁ。パパ、倒産のことでも辛いのに、私が誰かに殺されそうって聞いたら、よけいに心配するかなぁ?」
小さな隠れ家に重苦しい沈黙が下りた。誰も何も言わない。

アリスの部屋


 「パパだけじゃない。私も心配するわ」
落ち着いた、そして一切の迷いのない声が、小さな暗闇に響きわたった。フィービーの体が一瞬びくっとこわばった。
「かわいい妹が誘拐なんかされちゃったら」
驚きすぎて動けずにいたフィービーの目に、やがてじわりと涙が浮かんだ。
「クリスティ……」
クリスティが片手を差し出した。アリスによく似た大きな瞳から、涙が一気にあふれ出した。ぬいぐるみ達を押しのけてベッドの下から這い出してきたフィービーは、差し出された手を必死に掴むと、そのままそのしなやかな腕の中へと飛び込んだ。汗ばんだ小さな体をクリスティはぎゅっと抱きしめた。フィービーが声をあげて泣き始めた。ひっく、ひっくと、しゃくりあげるフィービーの背中を、クリスティはとんとんと優しく叩いてあげた。そしてフィービーが生まれたばかりの頃からずっと言い続けてきた言葉を、もう一度繰り返した。
「大丈夫よ、フィービー。私がそばにいるわ」

いつも一緒の「フィービーみまもり隊」


 その頃最上階のキッチンでは、メイド服姿のモニカが思いつめた表情で食器棚とオーブンの間を行ったり来たりしていた。いつになくせわしない動きにつられるように、定められた居場所で整然と並んでいた食器たちも、やがてカタコトと互いに振動し始めた。まるで何かの前触れを告げているようだ。普段は穏やかで心地よいはずの最上階に、次第に緊張が高まっていく。

 ふと、モニカが動きを止めた。普段はどんな時にも冷静なはずの横顔が、どんどん深刻なものへと変化していく。
 他に方法はない。
声にこそ出さなかったものの、その強い思いを頭から消し去ることは、モニカにはもう出来ないようだった。モニカはゆっくりと息を吸い、そして吐き出した。
 そう。他には方法はないのだ。
何度か無言で自分に言い聞かせたモニカは、足早に最上階を後にした。


 ティン。
 鈴の音のような音を立てて、エレベーターの扉がゆっくりと開いた。モニカの目にホテルを行き来する人々の姿が飛び込んできた。華やかなざわめきの中をすり抜けたモニカは、建物の一角にある部屋の向こうへと姿を消した。

 賑やかなロビーとは裏腹に、「人形の間」にはめずらしく誰の姿もなかった。イギリスの古いマナーハウスを思わせる心地よい室内は、シャンデリアのやわらかな光で温かく照らされていた。木目の美しいグランドピアノの蓋は開いたままで、大きな暖炉では炎が静かに揺れている。ほんの少し前まで、誰かがそこで寛いでいたかのようだ。
 モニカは部屋の扉をしっかりと閉め、中から鍵をかけた。そして暖炉の上に作りつけられたドールハウスの前に立つと、けわしい表情で中を覗き込んだ。
 二階建てのハウスにはいくつかの部屋があり、中には精巧な作りのミニチュアのゆり椅子やソファーセットが置かれていた。
 キッチンの飾り棚に収められた青磁の食器。
 書斎の本棚に並ぶすり切れた革張りの背表紙。
 コーヒーテーブルの上に無造作に置かれた、マッチ箱のようなチェスボード。 
 一つ一つの高価な家具や調度品が丁寧に並べられている様子は、まるでホテルヴィクトリアの最上階をそのままミニチュアにしたようだった。
 モニカは手にしていたマッチをすり、ハウスの暖炉に細工されたキャンドルに火を点した。そして出窓のカーテンをゆっくりと引き、部屋のすべての明かりを消した。不意に訪れた暗闇の中で、小さな暖炉の灯りに照らされたドールハウスが幻想的に浮かび上った。モニカはハウスの中央にある居間の扉に目をやった。

 やがて、カサッ、カサッ、という微かな音が、どこからともなく聞こえてきた。うっかり注意をそらせばたちまち消え入ってしまうような、とても小さな音だ。全身を緊張させたまま、モニカは片時も扉から目を放さなかった。
 その祈るような視線に応えるように、固く閉じられていた小さな扉がそっと開き始めた。

ある夜のドールハウス


※画像はすべてMicrosoft BingのチャットAI機能で生成しています。

サポートして頂いたお気持ちは、みなさんへのサポートとして還元させて頂きます。お互いに応援しあえるnoteにしてけたら嬉しいです!