ジンるいし:夕暮れ
気球に乗って、僕はゆらゆら空に浮かんでいた。僕の他に、制服を着た青年が気球に乗っている。
その青年は、大きなビニール袋を何枚も持っていた。そうして、そのビニール袋を広げて、何かを掬うような動きを何度も繰り返していた。
「何をしているんです?」
「今に、分かりますよ」
青年は、しきりにビニール袋を動かしていた。
しばらくそのようなことをしていると、突然、袋の中に脳みそが、ぽん、と現れた。僕は、びっくりして声をあげそうになったけれど、さらに驚いたことに、後から後からぽんぽんと脳みそが現れ、いつしか袋は脳みそで一杯になっていた。
「これは、どういうことなんです?」
僕は、聞かずにはいられなかった。
「これはですね」青年は脳みそで一杯になった袋を端にやり、新たな袋を取り出した。「疲れてしまった人の脳を集めているんです」
僕は驚いた。
「なぜそんなことをするんです?」
青年は、少し悲しそうな顔でほほえみ、
「これは、脳が疲弊してしまった人への治療なのです。この袋をひらひらさせると、疲弊してしまった脳がシュウっと出てきて、当人は、すうっと頭が軽くなるんです。皆、苦労しているんですよ」
「脳みそを取ってしまって大丈夫なんですか?」
「ええ、もちろん。これは、本当に脳を取っているわけではないんです。本物の脳のように見えますけれど、実際は、その人の辛い気持ちを取っているんです」
「辛い気持ち?」
「はい」青年は、いたって真面目に答える。「辛い気持ちや記憶は、負担になりますから」
僕は、だんだん不安になってきた。
「その気持ちや記憶はかえってくるんですか?」
「いえ、かえってきませんよ。辛いものなど、あっていいことはないでしょう」
僕は、袋にたまった脳みそをじっと見た。確かに、幸せなのかもしれない。しかし、……
青年の方に向き直り、
「確かに、辛いことはない方がいいでしょうが
、しかし、それをなくすのは、本人のたゆまぬ努力によってでなくてはなりません。その気持ちを乗り越えるために、ありとあらゆる知恵を絞り、時に自分を励まし、向き合わなくてはなりません。僕は、こんなやり方、嫌いだ」
青年は驚いたように話を聞いていたが、やがて、学生帽の向きをちょこんと直して、
「それは、出来ればいいですけれど、そんなに強い人というのはなかなかおりません。実は、これは国の取り組みなのです。近年増加している自殺者を減らそうとする取り組みの一環なのですよ」
僕は呆然としてしまって、青年を見た。青年は俯き、唇を固く結んでいる。なんだかただならぬものを感じて、思わず目を逸らした。
地上では、汽車が煙を上げて走っている。少し右を見ると、そこには海があった。太陽の光を受けて、燦々と輝く海があった。しかし、そこにある一隻の船を見て、びくりとした。その船は、脳みそが入った袋を、山のように積んでいたのである。
僕は、その場に座り込んでしまった。青年は、相変わらず袋をひらひらと広げている。
「すみませんが、僕は帰ります。降ろしてください」
青年は、こちらも見ずに、
「それは、出来ません」
とだけ言った。なんだかそれに腹が立って、
「どうしてです? 降ろしてくれと言っているだけじゃないですか」
そう言うと、青年はピタリと動きを止め、悲しそうな顔でこちらを見た。
「あなた、昔に人を殺したことはありませんか?」
突然、何を言い出すのかと思った。少し嘲笑して、
「いえ、ありませんよ。あるわけないじゃないですか」
青年は、僕の方をじっと見ていたが、
「そうですか」
とだけ言うと、袋の方に向き直り、やはり袋をひらひらと広げていた。
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