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【エッセイ】人間はハエである


毛先の柔らかい筆を使って雄しべについた花粉をすくいとる。黄色くて細かなその花粉を別株の雌しべの先にちょんちょんとのせる。小さな花の一つ一つを覗き込み、交配を繰り返してゆく。
ただ筆で撫でつけるだけでは受粉は成立しない。手のひらを広げるように雌しべがパッと開き、雄しべの花粉が弾けるタイミングを見計らう。花の咲き具合が合わないと交配は上手くいかず結実しない。

大雑把にいえば植物も人間も同じだ。無闇に営んでもタイミングが合わなければ子どもはできないし、逆に考えればタイミングが合えばその気がなくても子どもができる。
でも、子どもを作る作らない、子どもができるできない、そのことで植物は悩まない。風が吹けば花粉はひとりでに飛んでゆく。雌しべの先は粘液を出して花粉をしっかりと絡めとる。
風や虫を味方につけて生存本能に従う植物の姿はあっけらかんとしていて羨ましい。

ビニールハウスの中は暑い。汗が頬をつたって首筋に流れてくる。首にかけたタオルで拭いながら作業を進める。
「新しい個体が生まれる手伝いをするのって、神さまの仕事みたい」
隣のレーンで水やりをしている夫に冗談めかして声をかける。
「それは…ハエだね」
「え」
「交配の手伝いは、ハエの仕事。創造主じゃなくて媒介者」
夫の視線の先には花弁の上ですりすりと前足を擦り合わせるハエがいた。
媒介者であるハエもチョウもハチも、それぞれお気に入りの花弁めがけて飛んでくる。中でも匂いのきつい(臭いとも言える)花を好むのがハエだ。
うーん、ハエか?私は。
「チョウじゃなくて?」
「もののたとえで言っただけだよ。でもまあ、チョウって感じじゃないよね。人間は」
そんなことより暑すぎ、と夫は伸ばしたホースを引き連れて水やりを進めていく。
私は筆を握り直して交配の作業に戻り、夫の言葉を頭の中でいつまでも反芻している。うーん、ハエ、ハエかぁ…と微妙な気持ちになりながら。


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