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「気分」を哲学する。メカニズムでなく意味を考えてみる。2

こんにちは、アシです!

さて前回から、心の動きをテツガクしていこうということで、まず「不安」という気持ちが私たちに語りかけてくることは何だろうか考察していきました。

みえてきたのは「自由に対するめまい」。不安と思うとき、私達はその気になれば、あらゆる行きたい所に行きもやりたい事も実行に移せるはずなのに、様々なしがらみに捕らわれて選び切れない。実際の選択肢は限られていて、そのせいで「自分は何か取りこぼしたのでは?」という心の動きがみえてきました。

この気持ちを感じるとき、実は

目の前にはいくつもの自分にとっての可能性が広がっていることが分かるのです。


でも分かったとはいえ、実際問題自分が選べることは限られているし、ずっと不安を感じ続けるのも億劫だし…どうすればこの気持ちを和らげたり一時的でも無くせるの?

そこでヒントになるのが「退屈」になります。 つまらない、むなしい、などと感じるアレですね。


退屈については哲学者マルティン・ハイデガーが、何時間待ってもこない列車、時間を空費するパーティ、ただ佇んでいるだけの自分、といった形であらゆるタイプを紹介していますが、どれにも共通しているのは

自分を夢中にさせていない


というところです。どれも自分の心を捕らえず、自分をどこか「引き止め」放置しているように感じる。列車が来るまでの間なにをしていようか時間を持て余したり、せっかくイベントに参加したものの冷めた自分がいたり、出先でぼーっと信号を待っていたら何だかつまらない気持ちになったり。

たしかに、何かに熱を入れたり集中しているあいだは、きっかけが楽しさであれ恐怖心であれ、あの「つまらない」という感覚が襲ってくることはありません。

また同時に、「ほんとうにこれでいいんだろうか」といった、自分の選んだことの対する疑念の声もうすまっているのではないでしょうか。

「不安」によって、自分がたくさんの可能性に囲まれていて、選びきれない有り様がみえて。「退屈」から、限られた選択肢のなかで不安に駆られることなく動ける感覚がみえてきました。

こうやってみると、普段感じることのある気持ちを、メカニズムというより、気持ちから”自分の今立ち位置”的なものがみえてきませんか…?自分の気持ちについて、もう一度考えてみる、見直してみるきっかけになれれば嬉しいです。

ではまた今度…!













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