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日記:高台で考える自由について

(写真の猫は地域猫である。ハチワレとキジトラの間に生まれた子であることが一目でわかる美しい模様だ)

ニートなので、平日だが近所をゆっくりと散歩した。ニートになる前はそんな時間も体力もなかった。
歩きながら左右を見回すと、表札にまじって点々と看板がでている。セレクトショップ、アートギャラリー、カフェ、レストラン、クラフトショップ、小規模な美術館、またカフェ、またアートギャラリー。

ささやかな外観のギャラリーを見かけて入ろうとしたが、貼られている企画展のポスターを見て困ってしまう。
陶磁器だ。
じつは、私は陶器が全くわからないのだ。
絵画や彫刻やガラス芸術に関しても無知なのだが、塑像については本当にわからない。何が魅力とされ何が欠点とされるのか、基準が全くわからないのである。
中でも、食器は最もわからない。なにもかもがわからない。
どうしようかな。

扉を半分だけ押して尻込みしていると、中から「いらっしゃい」と優しい声が掛かって、「あ、失礼します」と言って中に入ってしまった。

ギャラリーの主であろうそのマダムは、これは𓏸𓏸県にお住まいの方の作品なんです、とか、それいいですよね、とか、色々話してくださった。「へえ、ふーん、そうなんだあ、すごーい」と気のないような返事ばかりしてしまって申し訳ない。ワレモノを見ると緊張して、それどころではないのだ。

陶器を見るとどうしても緊張してしまうのは、分からないからだけではない。
もし自分がこれを壊してしまったらどうしよう、と思うと落ち着いていられないのだ。
一旦そう思うと、自分が作品を壊すイメージばかりが頭に浮かんで、とても鑑賞どころではなくなってしまう。
今にも私の持っているバッグがお皿にぶつかって、床に落とすんじゃないだろうか。美しい平皿が粉々に散って、その音に慌てて振り向いた際に回した腕が別の作品に当たって、きれいなお椀が床に砕けて、動転して棚に手をついたら棚が崩れて、上に乗っていたたくさんの美しいお茶碗が一気に床へ叩きつけられて、うわあ、もう駄目だ、考えただけで倒れそうだ。もしここで倒れたら最低ふたつは棚を巻き添えにするに違いない、ああ、もう駄目だ、逃げ出したい、誰か助けて、神よ。

「よろしければお手に取ってご覧くださいね」と微笑むマダムに、私は「できません、壊してしまうかも」と返した。
マダムはいっしゅん驚いて固まったあと、「大丈夫ですよ」と微笑んで、それからずっと遠巻きに私を見ていた。すみません、マダム。

ギャラリーの中は、外から見た時のイメージよりもずっと広く感じられた。
奥の方には綺麗な絵の描かれた磁器が並んでいて、強く目を惹かれた。長谷川正治さんの作品だった。絵付けがとても美しかったので、造形美に関して無知な私でもその魅力を感じとることができたのである。

さっき別のお店でオリジナルブレンドのお茶を買ったので、それに合うマグカップを買って帰ろうと思った。どれも魅力的だったのでかなり迷ったが、宇宙飛行士の描かれたカップに決めた。

美しいカップだ。広大な宇宙をたったひとりで漂う宇宙服の男。孤独の極致とも言うべき図案が、孤独とは対極に位置する温かな筆致で描き出されていて、その雰囲気はどこか「星の王子さま」を思わせた。おとなの価値観を憎んだ王子さまが、いつかおとなになるときが来たら、きっとこんな感じの男になるだろうなあと私は思った。

棚からカップをそっと取って、「これを頂けますか」とマダムに手渡した。
私が手に持っても、別にカップは割れなかった。連鎖的に全ての作品が壊れたりもしなかった。 
あらゆることは意外と大丈夫なのかもしれない、と私はしばし錯覚した。



家に帰ってから、私の所有物となったカップをためつすがめつ眺める。こんにちは。今日から君はうちの子だ。
把手を持って中を覗きこみ、側面を一周見つめて、裏返して底を覗いて、そこで大いにびっくりした。

高台(コウダイ)がない。あの、食器類の底に必ずある、"足"の部分がないのだ。サインや印のようなものも彫られておらず、ただつるんと釉薬がかけられて、それだけなのである。
私は衝撃を受けた。

なくてもいいんだ、高台!

高台は絶対つけなきゃ駄目だと思っていた。なんであるのかはよく分からなかったけど、つけなきゃ怒られるんだと思っていた。
実際には高台がなくたって別に怒る人はいないし、怒られたとしても別によかったんだ。

そうか、制作って自由なんだった、と改めて思った。

最低限の機能性さえ損なわなければそれでいいんだ。いや、もっとつきつめて考えれば、機能性なんかなくたってアートとして鑑賞することはできる。
「やっちゃ駄目」「やらなくちゃ駄目」なことって、本当は私が思っているよりもずっと少なかったんだ。

そうだった。それが自由ってことなんだった。

折に触れて思い出さなければ、そんな簡単なことも覚えていられない自分のことを悲しく思った。


高台のないカップは洗いやすくてとてもよかった。

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