見出し画像

死の手段を持っておきたい

 自殺の方法をあらかじめ考えておいて、いざという時すぐに実行できるようになればいいなあと考えている。
 人は産まれてくるタイミングや手段を自分で決めることはできないから、せめて死ぬ時ぐらいは自分で決めたいと思う。けっこう頻繁に訪れる人生の分岐点において、その選択肢の中に「自主的に死ぬ」というカードを入れておきたいのだ。実際にそのカードを使うときがあっても、なくても。

 死ぬ手段についてなんらかのアイデアが得られるのではないかと思い「自殺うさぎの本」を購入してみたが、残念ながらあまり有用そうなものはなかった。意気揚々と(?)死に向かうウサギたちは読者に癒しを与えてはくれるが、作中で行われる自殺はささやかすぎてヒトには向いていなかったり、大掛かりすぎて社会的動物には向いていなかったりした。
 人間の自殺の方法を指南する本も存在するとは聞いているが、所持していることが家族や周囲にバレたらと思うと購入に踏み切れない。人間の持つ社会性というものは、しばしば非常に厄介なものだ。

 ネット記事やnoteを読む限り、首吊りが最も手軽で有用であるように思う。飛び込むなら十分な深さを確保できるダムが良いらしい。簡単に死ねるような薬品は頑張っても手に入らなさそうだ。それから、やはりと言っては何だがビルからの飛び降りや線路への飛び込みは推奨されないようだ。全くもって同意見である。やむを得ない最低限の迷惑を除き、死に際して人に迷惑を掛けるべきではないのだ。
 しかし、アパートの一室が事故物件になってしまったり、観光資源であるダムで自殺者が出てしまったことが知れたら関係者の方はさぞかし困るだろう。そう考えると自殺の現場は実家(わたしの両親が建てた立派なマイホーム)が一番良いのだろうが、自分たちが建てた立派なマイホームにわたしの汚い体液や死臭が染みこんで取れなくなったら両親はさぞ悲しむと思う。

 わたしにとって自殺とは、世界から逃避するための手段であると同時に、他人にこれ以上迷惑を掛けないために自分が取れる最良の手段でもある。だから、「人に迷惑の掛からない死に方であること」は自殺手段の要件として最も大事なのだ。もちろん苦痛が少ない方が嬉しいには違いないが、多少の痛みなら耐えられるような気がする。その痛みは、今まで社会に迷惑をかけてきた自分への罰なのだから。

 しかし、自殺の手段について考えるたびに、誰にも迷惑をかけずに自殺することがいかに困難であるか思い知らされる。死には必ず迷惑が伴うといっても良いかもしれない。死ねば必ず死体が発生し、いつかは誰かがそれを見つける。人が死ねば面倒な手続きだって必要だし、弔うには金もかかる。
 わたしの死に伴う、そういった色々の面倒ごとを背負わされた誰かが、わたしの醜い死体を見て「畜生、のうのうと死にやがって」と吐き捨てる瞬間を想像すると、自殺しようという気なんかいっぺんに失せてしまう。そうして今日も、ごめんなさいごめんなさいと誰にともなく謝りながら、死ぬこともせず、迷惑をかけながら生きていく。それは何よりも惨めなことだと自分でも思う。

 それでも、ときどき死ぬことを夢みずにはいられない。わたしがゴミのような世界から解放され、世界がゴミのようなわたしから解放される日のことを。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?