『正欲(朝井リョウ先生)』を読んでの感想




今やあらゆるところから聞こえてくる『多様性』。『多様性』。『多様性』。『多様性』。

だが、その『多様性』というものは本当に多様なものなのか?

その多様性という、我々生きている人間が定義したそれは、世間の〈多数派(マジョリティー)〉が定義したであろうそれは

その〈多数派(マジョリティー)〉が思いつかない〈少数派(マイノリティー)〉を省いた『多様性』。

つまりは『多様性』と言いながらも、完全な『多様性』ではない、不完全な偽りの『多様性』。

そもそもこの社会は、〈少数派(マイノリティー)〉よりも『多様性』という言葉を使いたがる〈多数派(マジョリティー)〉によって構成されている

(筆者側から見ると、それは強制的日常生活構成されているように見える)

社会の中で『多様性』なんてものが一欠片でも存在するのか?





・・・今回、紹介する作品は、私にこういったことを考えるきっかけとなった作品



     朝井リョウ先生の『正欲』



です!!



いつも通り端的ではあったのですが、私が読んでみての感想を紹介させていただきました!

他にも残していたメモは下のものになります!


(今作のセリフを書いたネタバレや少々性的なことも書いてありますので、苦手な方はブラウザバックをお願い致します)



マジョリティといのは何かしら信念がある集団ではないのだと感じる。マジョリティ側に生まれ落ちたがゆえ自分自身と向き合う機会が少なく、ただ自分がマジョリティであるということが唯一のアイデンティティとなる。



そう考えると、特に信念がない人ほど



“自分が正しいと思う形に他人を正そうとする行為“に行きつこうとするのは自然の摂理かもしれない。

(→これはマイノリティもマジョリティも関係ない。それぞれがコミュニティの大きさに関わらず、こういった考えを持っている。自身が自身の信念を持っているが故)



特殊性愛を持っている人間=バグ



では全ての人間が同じように同じような性愛を保持しているだろうか?



答えは否。一人一人が同じようで異なるそれを保持している。


(胸が好きだとかお尻が好きだとか、3次元がいいだとか二次元がいいだとか、行為全てを見る(前から後まで)とか(←ちなみに筆者)指でや口でや、体を合わせたりそれをする瞬間だけが性的に見えるとか)


一人一人がそれぞれ違う。同じ対象を見ながらも別の対象を見て(全ての人間の性愛の女性だとか男性だとかの対象が大抵一人であるように)
己のタイプを見つけ出す。

全くタイプが異なる。

少々矛盾するところや筆者の主観が駄々入りしているところがありますが、ご勘弁を!

ともかく、この『正欲』という作品。

我ら人間が持つ欲求に対して、その多様性に対しての考え方がガラリと変わる作品です!

もし、興味を持たれた方はぜひ読んで見てください!

本を読むのが苦手だよ!とか、読む時間がないよ!という方は、映画が公開されるようですので、そちらの方をぜひ見て見てください!

それでは本日もありがとうございました!

また半日、本日の残りの時間が、どうかあなたにとって幸せに暮らせることを祈って・・・

また明日お会いしましょう!

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