シェアハウス・ロック2405中旬投稿分

ハリー・ベラフォンテ1960年in Japanを発見0511

 前述のカーネギーホール・コンサートは、1959年のことである。その翌年、ハリー・ベラフォンテが来日した。
 1960年の日本公演は2日間だったはずで、その公演を見た三島由紀夫は、ベラフォンテを「褐色のアポロ」と言っている。さすがうまいこと言うもんだね。新聞に掲載されたコンサート評中の言葉なのだろうが、私は、当然リアルタイムで読んでいるわけではなく、中村とうようさんの、ベラフォンテのレコードのライナーノーツのどれかで知ったわけである。
 この日本公演の映像を、私はYouTubeで発見した。まさかあるまいと思ったが、念のため「ハリー・ベラフォンテ 1960」で検索してみたところ、ヒットしたのである!
 1960年は、ベラフォンテの第一回目のカーネギーホール・コンサートの翌年だ。おそらく、ほとんど出演者は同じで、向って左の3人(ギター×2、ベース)は、カーネギーホール・コンサートと配置も同じ。コーラスも同じ。ちなみに、ギターの右側の人がミラード・トーマスなんだと思う。ミラード・トーマスは、初期のベラフォンテのアルバムの伴奏をよくやっている。
 確か、TBSとタイトルバックに出て来たと思う。TBSで放映されたものを、どなたかが録画し、アップしたものなのだろう。当然、画質、音質はよくないが、そんなぜいたくは言っていられない。これが見られただけでも大感激で、しかも、あたりまえだけど映像つきだからね。もしかして、カーネギーホールのものも、誰かが録画していて、いつの日か見られるかもしれない。長生きしなくちゃね。これを見るためにもね。
 この来日中、べラフォンテ先生は美空ひばりの家に行き、歓待され、美空ひばりの歌う『唄入り観音経』を聞いて、泣いたという。日本語がほとんどわからないべラフォンテが泣いたのだから、たぶん美空ひばりの音楽の「構築性」で泣いたのだろうと思う。これは竹中労の『降臨 美空ひばり』に出ていた。私が読んだのはこのタイトルではなく、『美空ひばり伝』とかなんとか、味も素っ気もないタイトルだった気がする。文庫化するときに、タイトルを変えたんだろうか。
 ハリー・べラフォンテの人となりを知りたかったら、「追悼 ハリー・ベラフォンテ インタビュアー 黒柳徹子 1997年」をYouTubeで見てくださいな。
 黒柳徹子は、音楽家夫妻の娘さんであるにもかかわらず、たぶん音楽はそんなにわからず、国連大使かなんかだったんで社会運動家としてのべラフォンテにフォーカスし過ぎている嫌いはあるものの、番組全体としてはなかなかいい。
 ただ、私としては、音楽家としてのベラフォンテのほうが、100倍も好きだ。あれくらいの社会運動家はけっこういるが、音楽家としてあれだけの人はなかなかいない。
 べラフォンテは公民権運動の闘士でもあったのだが、逮捕されることを心配した人から意見をされ、次のように答えたと言う。

 音楽家は逮捕できるかもしれないが、音楽は逮捕できない。

 私が生涯聞いたなかで、一番いい言葉だ。その通りである。音楽は逮捕できない。だから、音楽は絶対的に自由なのである。

2枚目はサム・クック0512

 四谷のライブバー461(夫)とは、音楽の話をよくする。そもそも461は、エリック・クラプトンのアルバム『461 Ocean Boulevard』から付けたものである。ご本人に確かめてはいないが、これは確かめるまでもない。
 なんでこんなマクラを振ったかと言えば、初めて買ったレコードの話を461(夫)としていて、「2枚目はサム・クック」と言ったら、「1枚目はわかるが、2枚目はヘン」と返ってきたからだ。
 でも、本当はヘンでもなんでもない。当時のラジオのヒットパレードでは、よくサム・クックの『Twistin' the Night Away』がかかっており、「よし。2枚目はあれだ」と見当をつけていたのである。邦題は「ツイストで踊りあかそう」であり、ツイスト(踊り)が日本でも流行り始めたころだったのである。
 ミスター・ツイストと言えば、日本では藤木孝だが、アメリカではチャビー・チェッカーだった。まあ、こんな話はどうでもよろしい。
 裏面は『One More Time』で、これは単なるラブソング、バラードだが、私は裏面のほうが気にいった。べラフォンテ同様、「歌のうまい人だなあ」と思った。
 当時、サム・クックは、日本ではまったく評価されなかったが(というか、評価以前。知っている人は少なかった)、アメリカ、特に黒人社会では評価が高かったのである。
 アメリカの音楽雑誌『ローリング・ストーン』が選出し、2008年11月27日の特別号に掲載した「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」で、サム・クックは第4位である。ちなみに、10位までは、アレサ・フランクリン、レイ・チャールズ、エルヴィス・プレスリー、サム・クック、ジョン・レノン、マーヴィン・ゲイ、ボブ・ディラン、オーティス・レディング、スティーヴィー・ワンダー、ジェームス・ブラウンである。さすが『ローリング・ストーン』で、順当だと思う。
 私が2枚目のレコードを買ったころは、少なくとも日本では、ジョン・レノン、マーヴィン・ゲイ、ボブ・ディラン、オーティス・レディング、ジェームス・ブラウンは影も形もなかった。
 スティーヴィー・ワンダーは、デビュー時リトル・スティーヴィー・ワンダーといい、このころはまだリトルが外れていなかったと思う。オーティス・レディングの日本デビューは、確か翌年。『ドッグ・オブ・ザ・ベイ』だった。アレサ・フランクリンは、実は、私はそのころから聴いてはいた。この話は明日する。
 サム・クックは、1964年12月11日に、モーテルで、女主人に拳銃で撃たれて死んだ。この事件を、私はFEN(進駐軍放送)で、リアルタイムで聞いている。14歳だった。
 このレコードはどこかに行ってしまった。『Twistin' the Night Away』は、ベスト盤とか、ライブ盤(2枚あってどちらも名盤)でも聴けるが、『One More Time』のほうは聴けず、60年近くなんとかしたいものだと思い続けてきたが、つい最近、初期のものばっかり集めた盤で再会した。
 私は、他のことは割合淡泊だが、こと音楽と本に関してはしつこいのである。

 
3枚目はレイ・チャールズ0513

 3枚目に買ったレコードはレイ・チャールズの『ジョージア・オン・マイ・マインド』。この歌も、ラジオで知った。このころは、テレビはもう我が家にあったはずだが、ラジオばっかり聞いていた。テレビは、音楽もほとんど歌謡曲か、洋物でも日本人の歌手によるものだったので、どうしても聞くのはラジオになる。
『ビルボードトップ20』とか、今週のベスト10とか、そういった番組で『ジョージア・オン・マイ・マインド』を知ったのである。そういうつくりの番組であるから、ティン・パン・アレーものが多い。ティン・パン・アレーはいずれきちんとお話しするが、とりあえず、お子さまランチっぽい音楽とお考えいただいていい。ボビー・ヴィ―とかボビー・ライデルとか、ペギー・マーチとか、コニー・フランシスとか、そういったあたりが歌うものだ。いま、お子さまランチと言ったが、歌謡曲は「オヤジ丼」とか、「婆あ飯」であり、私は自分自身がオヤジになるまでは、まったく聞かなかった。
 こういったシュガーコーティングみたいな曲のなかにあって、『ジョージア・オン・マイ・マインド』は異彩を放っていたのである。それで、歌詞をおぼえたくて買ったのだった。
 これでレイ・チャールズが気に入り、次のレコードはレイ・チャールズの『ユー・アー・マイ・サンシャイン』である。私の知っている曲と、歌詞はおんなじであるが、メロディーがまったく違うのでビックリした。いまなら、ソウルフルとか、ゴスペルっぽいとか表現するのだろうが、「なんだ、なんだ、これは」という感じだった。なんせ、小学4年生だからね。
 レイ・チャールズの『ユー・アー・マイ・サンシャイン』のレコードでは、女性がワンコーラス、ソロをとる。この女性がメチャクチャうまい。初めて聴いたときは、鳥肌が立ったくらいだ。ワンコーラスなのに、レイ・チャールズを完全に食ってしまっている。
「あれは誰なんだろう」と、そのころから思い(当然、ライナーノーツにはこの人に関してはなにも書いてなかった)、ずっとそう思い続け、それからはこのあたりの事情に詳しそうな人に会うたびに、「知ってる?」と聞き続けて来た。60年間である。
 毎度おなじみの焼酎バー「寛永」のマスターは、新星堂という大手有名レコード店チェーンの店長だった人だ。だから、音楽はやたら詳しい。それでも知らなかった。ただ、彼は「ネットで調べてみたら?」とアドバイスしてくれた。
 日本語のネットでは見当たらず、英語のネットでやっと「あれ」がアレサ・フランクリンであることを知った。うまいわけだよな。計算すると、アレサ・フランクリンは10代だったはずだ。
 最初に、「あれは誰なんだろう」と思ってから、約60年後である。昨日も申しあげたが、私は、こと音楽と本に関してはしつこいのである。
【追記】
『ジョージア・オン・マイ・マインド』ではハッシュタグが立たなかった。念のため、邦題である『我が心のジョージア』では立った。よって、追記しておく。
 
 
ロゴ84 0514

 私は、コンピュータ関係書籍、雑誌の編集を長いことやっていた。この仕事を始めたのは30代に入るちょっと前だ。このころ、コンピュータ関連は極端な人手不足で、「学歴問わず」「前科問わず」「人間であればOK」みたいなところがあった。で、そういう仕事だったら私でも就けたわけである。
 MIT教授のシーモア・パパートが開発したロゴというコンピュータ言語があった。この話もいずれゆっくりしたいのだが、今回は「初めて買ったレコード」シリーズなので、先を急ぐ。
 表題のロゴ84は、1984年にMITで開かれたロゴのカンファレンスである。これに私は参加した。日程は約一週間。前後を入れれば、旅程は10日間になった。カンファレンス中は、MITのドーミトリーに寝泊まりした。
 真夏で10日間なので、当然、洗濯をする必要が生じる。私の泊まっていたドーミトリーの地下に洗濯場があり、そこには何台かのコインランドリーがあった。
 通常、こういうときは、出来上がりを待つ間に本を読む。洗濯で約40分、乾燥で約40分だから、そうでもしないと時間をもてあましてしまう。ところがそのとき、私は本を持ち込むのを忘れたのである。
 仕方ないので、時間つぶしに歌を歌うことにした。床も天井も壁もみんなコンクリートで声がよく響いて気持ちがいい。4分の曲を20曲歌えば、80分は自動的に経ってしまう。何曲か気持ちよく歌い、『ジョージア・オン・マイ・マインド』になった。
 階段にドタドタという足音が聞こえ、ドアがバタンと開かれた。戸口で黒人が周囲を見回している。私しかいないので、近づいてきて、「いま歌っていたのはおまえか?」と聞いてきた。
「そうだけど、うるさかった? ごめんね」と私は言った。「そうじゃないんだ。そうじゃないんだけど、なんでおまえがあの歌を歌ってるんだ?」。確かに、東洋人である私が歌うよりも、彼のほうが『ジョージア・オン・マイ・マインド』は似合いそうだ。
「あの歌、好きなんだよ。知っている歌のなかで、一番好きかもしれない」
「おれもあの歌好きなんだ」
と言って、彼も歌い出した。
 私たちはすっかり意気投合し、音楽の話を延々した。彼と私は、アメリカと日本で、同じような歌を同じように聴いてきたのである。
 彼は、「アトランタ・ロゴ・プロジェクト」というのに属していて(カンファレンス中、そのTシャツを着ている連中に何人も会っていた)、アトランタはジョージア州の州都である。そして、『ジョージア・オン・マイ・マインド』は、もうそのときは州歌になっていたと思う。
 彼は、ロバート・ブラウンと名乗った。「ホントかよ」と私は返した。いまはあんまり見かけないけど、ウィスキーの銘柄で「ロバート・ブラウン」というのがあったのである。
「ところで、去年、サム・クックのニュー・アルバムが出たんだぜ。知ってるかい」
 当然、彼は、1964年にサム・クックが死んだことを知っている。
「えっ、どういうことだよ」
「『ハーレム・スクェア・ライブ』だ。日本では去年出たんだ」
 これは本当のことである。ロバートは大笑いした。
『2枚目はサム・クック0512』で言ったもう一枚のライブ盤は『atコパカパーナ』。この2枚と、ベスト盤があれば、サム・クックのほぼ全貌がつかめる。

【Live】佃煮2種0515

 久々の料理ネタ。
 かぶの葉っぱは大根のそれと比べて、だいぶやわらかい。我がシェアハウスでは、炒めてラーメンに入れていた。かぶの葉っぱは、ほぼそうやって消費していたのである。
 あるときおばさんが謀反気を起こし、炒めて佃煮様にしたらどうかと試した。そのときは、醤油、ゴマ油、みりんで味をつけたという。味が決まらないので、階下からSOSがかかった。「へいへい」。
 私は階下に降り、まず、「不作分」の味見をし、少々のオイスターソース、ナンプラー、極々微量のカイエンペッパーを追加。カイエンは隠し味だ。この時点で私にもちょっと謀叛気が出て、コーヒー店でもらってきたスティック状のグラニュー糖半分を加えた。
 コーヒー店によっては、問答無用でグラニュー糖、ミルク(スジャータみたいなもの)を付けてくれるところがある。捨てるのもなんなんで、一応は持って帰る。それを使った。全体が廃物利用っぽい。というか、廃物利用そのものだな。廃物利用でも、味付けは成功!
 それから、かぶの葉っぱの佃煮様のものは、我がシェアハウスの常備菜になったわけである。グラニュー糖半分がけっこうな味の決め手になった。ご飯にかけたり、豆腐に載せたり、いろいろ使える。
 12日(日曜日)、我らがシェアハウスは大宴会だった。
 毎度おなじみケイコさん、マエダ(夫妻)、我がシェアハウスの3名。ここまでが地元勢。それに初出のカヤマ三姉妹。全員の歳を加算すると、約800歳になる。こんな計算になにか意味があるかわからないが、ほぼ一世紀である。
 私を除いて全員が大呑兵衛である。私はトリの豆苗炒飯製造までは酔っぱらうわけにはいかず、日本酒一合をチビチビと飲んでいたが、遠征勢が帰った後に遅ればせながら日本酒を四合飲んだ。この四合の間に、遠征勢本隊から「無事に帰った」と電話があった。2時間飲んでいたことになる。
 翌日は、ケイコさんが買って来てくれたキムチを、我が畏友その2に渡し、一緒にランチを食べた。畏友その2は、キムチが大好きなのである。ケイコさんが買ってきてくれるキムチがうまいので、一度、我が畏友その2に食わせたかったのだ。
 それと、生海苔からつくった佃煮を渡すつもりで、それもつくった。
 おばさんは、二日酔い気味(「気味」と本人は言っていたが、あれは立派な二日酔いだ)で、「ランチなんかとても食べられない」ということで不参加。

 
ティン・パン・アレー0516

 ティン・パン・アレー(Tin Pan Alley)は、ニューヨーク市マンハッタンの28丁目とブロードウェイ6番街に挟まれた一角の呼称。この場所に蝟集する音楽関係会社(音楽出版社や楽譜出版社、演奏者のエージェント等々)を指すが、そこで扱われる商業主義的な音楽そのものを指すこともある。
 ブロードウェイは、ミュージカルの代名詞でもあった。1970年代には、大手に対抗するオフ・ブロードウェイ、オフオフ・ブロードウェイまで生まれ、この状況は日本の小劇場運動とも呼応するところである。
 さて、ブロードウェイが成立したのは1890年代後半あたりから。当時はレコードの普及前であり、当時の主たる音楽商品は楽譜であった。
 ティン・パンは、錫の鍋。あちらこちらで楽曲の試演を行っていたため、まるで鍋でも叩いているような賑やかな状態だったところからこう呼ばれるようになった。直訳すると錫鍋横丁になる。
 ポピュラー音楽における作詞家、作曲家、歌手の分業システムは、ここティン・パン・アレーで確立された。ここに拠った代表的な作曲家としては、ジェローム・カーン(1885年1月27日 - 1945年11月11日)、コール・ポーター(1891年6月9日 - 1964年10月15日)、アーヴィング・バーリン(1888年5月11日 - 1989年9月22日)らがいた。
 ジョージ・ガーシュウィン(1898年9月26日 - 1937年7月11日)も、15歳ごろ、ティン・パン・アレーで楽譜を客に試演する仕事をしていたという。当時レコードはまだ高価で、一般的なものではなかったので、楽譜を買いに来た客に試演をして聞かせていたのである。
 この4人の作曲家で、アメリカのスタンダード・ナンバーの半分程度はつくられたと言ったらちょっとオーバーかもしれないけど、メチャクチャオーバーではないと思う。
『3枚目はレイ・チャールズ0513』で申しあげた「ティン・パン・アレーもの」は、スタンダードソングのほうではなく、上記の「商業主義的な音楽」に該当するものだ。
 その当時は、ゴフィン - キングが「ティン・パン・アレー系」としては最も有名で、『ウィル・ユー・ラヴ・ミー・トゥモロー』(歌・シュレルズ)はビルボードのナンバー1ヒットとなった。これは、黒人のガールズ・グループとして初のナンバー1ヒットである。もうひとつ、『ナチュラル・ウーマン』(歌・アレサ・フランクリン)を挙げておく。
 もう、正体がバレたと思うが、キングは後のシンガーソングライター、キャロル・キングである。1960年から1963年にかけての3年間に、ゴフィン - キングは、全米トップ40ヒットに20曲あまりを送り出している。
 ここに挙げた2曲は、『Tapestry』(邦題は『つづれ織り』)のなかで、本人(キャロル・キング)の歌唱で聞くことができる。
 余談だが、youtubeで見られる『トリビュート for キャロル・キング』では、アレサ・フランクリンが歌う『ナチュラル・ウーマン』が聴け、それを聞いて涙を拭うオバマ元大統領の姿が見られる。

5枚目以降はグチャグチャ0517

 買ったレコードのうち3枚目、4枚目まではかなり細かなところまで憶えているが、そこから先はグチャグチャである。グチャグチャの原因はいくつかある。一番大きな原因は、お小遣いが値上げされたことである(たぶん)。よって、買える枚数が急に増えた。
 もうひとつは、友だち連中で洋楽を聴くやつらがボチボチ現れ始め、それからはレコードを借りたり、貸したりが始まったことによる。買って聴いたのか、借りて聴いたのかがわからなくなったのである。
 さらに、テープレコーダーを買ってもらい、借りたレコードを録音したり、前にちょっとお話ししたように、エアチェックを始めたりで、ますます混乱をきたした。
 それでも、LP盤になると金額も高く、買うのにもそれなりの勇気が要るので、憶えているものもある。
 高校に入るまでで言えば、『ニグロ・スピリチュアルを歌う』『囚人の歌』『ミッドナイト・スペシャル』(ハリー・べラフォンテ)。ハリー・べラフォンテだったら『カーネギーホール・コンサート』を買いそうなもんだが、それはシングル盤で8割くらいはクリアしているので、他のものにしたのである。
 そのほかで憶えているのは『カントリー&ウエスタン1』『2』(レイ・チャールス)、『バリハイ』(サム・クック)等々である。『バリハイ』は、ミュージカル『南太平洋』のなかで一番有名な歌で、たぶん主題歌だ。サム・クックは、そんな歌まで歌わされていたわけである。可哀そうに。アルバム『バリハイ』は、タイトルを記憶違いしているかもしれないが、A面一曲目がその曲である。
 ビートルズは、私が中学のときには日本で知られるようになったが、LP盤を買ったのは、高校になってからだ。ラジオでいくらでも聴けたから、レコードを買う必要がなかったのである。ヒットパレードの第一位から第五位まで、ビートルズだったことすらある、
 ビートルズのレコードは、パーロフォン版が正式だが、日本版はアメリカ版に準じており、結構グチャグチャである。つまり、パーロフォン版の2枚を水増しして3枚にしたものがアメリカ版(EMI版)であり、当時は友だちと話していても、この差でだいぶ混乱させられたものだ。現在はパーロフォン版に統一されている。これは歴史の善意というものである。
 ボブ・ディランも、初めて聴いたLPは、日本版だった。『風に吹かれて』と『ライク・ア・ローリングストーン』が一枚の盤に同居する、後年考えたらとても奇妙なものだった。
 20歳を過ぎたあたりで、『sings Billie Holiday』(サム・クック)を買った。新宿のワシントン靴店のところを入った先、靖国通りとの角にあった新星堂で、ポツンと1枚、私に買われるのを待っていたのである。洋盤である。迷わず買った。

突然、電話で。0518

 まだ母親の家にいたころの話だ。
 電話が鳴った。出ると、
「もしもし、千都さんですか?」
「そうですが」
「浅川マキです」
 なんだ、なんだ。ビックリして受話器を落とすところだった。浅川マキは『夜が明けたら』でデビューし、それが爆発的に売れ、アングラの女王などと呼ばれるようになっていた。つまり、「女王」から直々に電話をいただいたのである。これでビックリしなかったら、ビックリするところなどどこにもないだろう。
「千都さん、サム・クックがビリー・ホリディの曲ばかり歌っているLP持ってるでしょ?」
「持ってるよ」
「売って!」
「やだよ」
 売ってしまったら、次にいつ手に入るかわからない。こういうシブいレコードは、それほど供給が不安定だったのである。だから店頭などで見かけたら、「迷ったら買え!」が鉄則だった。
 浅川マキさんは、電話口の向こうで黙り込んでしまった。ずーっと黙っている。
 しかたない。私は代替案を出した。
「売るのはやだけど、テープに入れてあげるよ。住所教えてくれたら、送ってあげる」
 まだ黙っている。住所を教えるのがいやなのかなと考えた私は、さらに代替案を出した。
「じゃあ、場所を指定してくれたら届けるよ。喫茶店とか」
「あのね、私ってこんなでしょ。悪いけど、家まで持って来てくれる?」
 私ってこんなが、どんななのかよくわからないけれど、しかたない、乗りかかった舟だ。
 指定の日、指定の時間に、六本木の芋洗い坂を降りて、麻布十番の手前の左側にあったマンションに届け、コーヒーをご馳走になって帰ってきた。
 年末恒例だった新宿文化でやるライブの招待券が、12月になって母親の家に届いた。お礼なのだろう。
 これは椿事としては、私の人生のトップテン内にランクすると思うが、どういういきさつでこうなったかの見当は、だいたいはついている。スズキユウという私の友だちが、彼女に直接しゃべったか、どこかを経由して伝わったのかのいずれかである。

映画『キャデラック・レコード』0519

『キャデラック・レコード』は2008年公開のアメリカ映画である。チェス・レコードの興亡を描いた作品で、主人公はエタ・ジェームスだ。脇役としてマディ・ウォーターズ、ハウリン・ウルフが出てくる。チャック・ベリーはチョイ役である。ああ、これは私の目からは、ということね。
 冒頭に、ジョン&アラン・ロマックス父子が、南部の農場に来て、ブルースだか、労働歌だかをテープを回して録音するシーンが出てくる。これだけで、もう私は完全にいかれてしまった。ああ、もちろん本物じゃないよ。しかも、説明も出なかったと思う。でも、あれは、ロマックス親子だ。彼らは、小学校高学年くらいからの私のカルチャーヒーローなのである。間違えるはずがない。
 それ以外も、本物じゃなく、役者が演じた。ちなみに、エタ・ジェームスを演じたのはビヨンセである。
 中盤あたりだったろうか、数人の白人のあんちゃんが、おそらくオーディションでも受けるのだろう、チェスレコードの社屋に入っていくシーンがある。記憶では、ほんの数秒である。
 これは、実は有名な話であって、まず、白人のあんちゃんたちはローリング・ストーンズである。
 どこで読んだかはまったく憶えていないのだが、彼らが楽器類を運び込もうとしていると、それまでペンキ塗りをしていた大柄な黒人のおっさんがそれを中断して近づいてきて、「あんちゃんたち、オーデションかい。手伝ってやろう」と言って、一緒に楽器を運び込んでくれた。運び終わり、「おっさん、ありがとう」かなんか言って、おっさんが帰った後、仲間がふと見るとキース・リチャーズがガタガタ震えている。
 他のメンバーが「おい、キース、どうしたんだよ」と声をかけると、キース・リチャーズは「おまえらわからなかったのかよ。いまのおっさん、マディ・ウォーターズだぜ」。
 マディ・ウォーターズは、当然もうレコードを出してはいたが、それだけでは食えないのか、チェスレコードから金をもらい、ペンキ塗りのアルバイトをしていたのである。ちなみに、ローリング・ストーンズというグループ名は、マディ・ウォーターズの歌の歌詞からきている。そりゃあ、震えるわなあ。
 私は一度しか見ていないのだが、このふたつは鮮烈な記憶だ。また、見たら、新たな発見があるかもしれない。映画そのものもよくできているが、いい映画は、こういうちょっとしたとこで、ちょっとした工夫をしているものなのである。
 今回の表題は「映画『キャデラック・レコード』」だが、どういう映画かお知りになりたい方は、ネットを検索してみてくださいな。あらすじからなにから、たくさんあると思う。でも、今回私が申しあげたような話は、まずどこにもないはずだ。映画評等々で私は今日の話を読んだ記憶がない。

うなる話0520

 うなる話といっても、聞いたり読んだりして、聞き手/読み手がうなる話ではない。つまり、今回は、それほどの話ではない。ただ単に、演奏中うなる音楽家の話である。
 それじゃ、都はるみのことだろうかとお思いかもしれないが、あの人はうなるのも歌のうちだから、違う。うなる必要もないのに、なぜかうなってしまうミュージシャンの話である。
 うなるミュージシャンはけっこういる。代表例は、キース・ジャレットだ。この人はけっこううるさい。しかも、ヘンな声でうなる。ジャズ系では、他に有名どころとして、オスカー・ピーターソンがいる。ただ、この人は、もともと弾き語りの人だったので、ついうっかりピアノの音と一緒に歌ってしまい、それでも自制は効いているので、うなり状態になるのではないかと考えられる。
 余談だが、ナット・キング・コールとこの人はスタイルも一緒(ピアノトリオ形式+歌)で、営業的にバッティングする。この人とキング・コールは仲良しだったので、あるとき、「おまえ、歌うな」「おまえ、ピアノ弾くな」と言い合って合意に達したという話がある。
 ジャズ系のミュージシャンは、いかにもうなる感じはする。では、クラシック系のミュージシャンはうならないのかといえば、なかなかそうはいかない。
 パブロ・カザルスはうなる。
 グレン・グールドも相当にうなる。だから、うるさいのを我慢して聞くか、うなり声がやだから聞かないかの二択になる。私も若いときには「うならなければいいのになあ」と思っていたのだが、このごろはあまり気にならなくなったきた。
 では、管楽器奏者はうならないか? そんなことはない。ローランド・カーク(『ローランド・カーク1018』『世界ビックリショウ1019』参照)は、フルートを吹くとき、うなるというか、喘息患者の息のような音を出す。ただ、喘息患者の息も音楽になっている。
 うなり声ではないが、ライブ演奏などで、観客の咳の音が聞こえるときがある。ハリー・べラフォンテのカーネギーホール・コンサート(1959年)の抜粋版『ダニーボーイ』(『初めて買ったレコード0508』参照)では、「初めて」時点では、つまりレコード時点では、相当に咳の音が聞こえたが、いまCDで聞くと、ほとんど聞こえない。デジタル処理をして聞こえなくしているんだろう。
 これはいいことには違いないが、ときおり、咳入りバージョンがなつかしくなることもある。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?