シェアハウス・ロック2412初旬投稿分

宇和島紀行51201

 最終日の午前中、宇和島城に行った。
 宇和島城は、藤堂高虎の築城になる。慶長元年(1596年)、もともと板島丸串城のあった陸繋島において、高虎は築城工事を始める。ほぼ六年を費やして、不等辺五角形の城郭は完成した。ほどなくして、幕府の密偵が潜入して目視図面を描くが、四角形に見誤ったという。この誤った図面は現存し、パンフ等々で見られる。
 慶長十九年伊達政宗の長子である秀宗が、徳川二代将軍秀忠より、宇和郡を拝領した。西国伊達の誕生である。西国伊達は九代宗徳まで連綿と続く。
 秀宗は、あっちに養子に出され、こっちに養子に出され、生々流転の人生だったが、やっと安堵の地を得たわけである。
 日本史の試験だったら、秀宗から七代目まではとばしても大丈夫。ただ、八代目の宗城(むねなり)は、出題される可能性があるので要注意。
 彼は「蘭癖」とまで呼ばれた開明的な殿様だった。このあたりのお話は数行では済まないので次回か、次々回に。
 この文章は、宇和島城に登った翌々日に書いているが、いま、両脚の筋肉痛と闘っている。確か、海抜80mのところに建っているようで、それだったらなんのことないと考えてしまったのだが、結構登りがきつい。階段が江戸時代の階段なので、一段一段の高さが異なり、とても登りにくく、よって負荷も大きい。
 それでも12時ごろには麓に降り、ホテルに預けていた荷物を回収し、宇和島駅から松山に向かう特急に乗り込んだ。次の駅を通り過ぎたあたりで、一昨日お世話になったセイケさんから、マエダ(夫)にメールが入り、内容は「いま、貴兄らの乗った列車を見送った」とのこと。見送りまでしてくれたのか! セイケさん、本当にありがとう。
 宇和島から松山へは、特急で一時間半程度。松山駅から空港は、せいぜい15分。
 空港で遅い昼飯を食い、チェックインのところでマエダ(夫)とは別れた。彼はANA、こっちはジェットスターだからだ。
 当日は、なんでも偏西風が強いとかで、到着便は40分遅れ。よって、フライトも40分遅れ。偏西風が強くて遅れたんであれば、東に向かうフライトは短時間で済みそうなものだが、飛行時間は普段通り。どうなってんだろうね。
 成田空港のビルを出た目の前に新宿行のリムジンバスが待ってたので、なにも考えずに乗り、新宿で降りた。私鉄で最寄り駅に向かい、まっすぐ帰るつもりだったのだ。
 ところが、私鉄駅構内で、マエダ(夫)とバッタリ会って、ビックリ。バッタリでビックリ。こんなことあるんだねえ。
 当然、最寄り駅の例の立ち飲みバーで一杯やることになった。これで、なんだか画竜点睛の気分である。

 
宇和島紀行61202

 今回は、伊達宗城の「蘭癖」について。
「宇和島紀行31129」でオランダおいねの話をした。これも「蘭癖」の一端である。『渡辺崋山』(杉浦明平)にも「蘭癖」という言葉が何回か出て来たと思うが、ようするに「紅毛贔屓」ということである。たぶん、であるが「癇癖」の「か」を「ら」にしただけでつくった言葉なんだろうな。
 宗城の「蘭癖」はかなり本格派である。
 たとえば弘化四年(1847年)、宗城は幕府より砲術蘭書を借覧し、帰国するとそれを基に砲術の演習を繰り返し、また弓組を鉄砲組に改組するなどした。砲術への興味は同書で初めて喚起されたわけではなく、先立つ弘化元年には焔硝製造所を設置、翌弘化二年には大筒鋳立場も開設している。後のことになるが、アームストロング砲も自前でつくっている。
 八幡浜生まれの嘉蔵(本職は仏具、具足、提灯などの細工師)には、蒸気船をつくれという無茶振りをしている。嘉蔵は器用なことで知られた人物で、網曳き用の轆轤をヒントに外輪の仕掛けをつくり、上覧に及んだ。宗城は喜んで、二人扶持五俵で御船手方に登用された。嘉蔵クン、どんどんと深みにはまっていく。
 三度にわたって長崎に留学し、さらに薩摩藩にも学びに行き、安政六年正月、試運転にこぎつけた。小型で速力もでなかったが、純国産の蒸気船第一号である。
 嘉蔵はそのほか、木綿織機、ミシン、ゲーベル銃と雷管などを開発した。幕末宇和島のエジソンと呼びたい。
 宗城は、こういうぶっそうな方面だけでなく、医学、語学方面でも「蘭癖」だった。
 宇和島藩は多くの蘭医を擁した。緒方洪庵門下10人、伊藤玄朴門下13人、華岡青洲門下5人など。
 弘化三年、江戸において天然痘が大流行したが、伊藤玄朴らが正子(宗紀七女)に種痘をほどこしたため、正子は顔に軽微な痘痕を三か所残すのみだったという。
 嘉永五年(1852年)には、宇和島に種痘所が設置され、藩医が種痘にあたり、次第に民間医にも波及していったという。
 蛮社の獄で入牢した高野長英も、脱獄後、宗城の腹心・松根図書により、招聘され、宇和島に一年ほど逗留し、蘭書の翻訳をし、また蘭学を教え過ごした。
 村田蔵六(大村益次郎)は周防の人だが、宇和島に長逗留し、藩のお雇い蘭学者として、洋式軍隊と軍艦建造の研究を行い、藩士に講義をした。オランダおいねは、蔵六の塾でオランダ語を習った。蔵六は、宇和島藩士として幕府の蕃書調所の助教授、講武所の砲術教授に迎えられ、後、乞われて長州藩に仕官することになった。
 京都で刺客に襲われた蔵六を看取ったのは、おいねと娘夫婦だったと言われている。

宇和島紀行71203

「宇和島紀行21128」で「橋となりたし」と言って、本当に橋になってしまった穂積陳重は法学者であり、明治民法、戸籍法などの起草者のひとりである。
 大津事件(「宇和島紀行31129」参照)で、同郷であり、同じ法学者として、国家権力に対峙した児島惟謙を励ましもした。児島クン、さぞ心強かっただろう。
 話は変わるが坂本龍馬は文久元年(1861年)宇和島に来て、藩士と剣術の試合をしている。その相手でわかっているのは、児島惟謙と土居通夫である。
 土居通夫は志士として活躍の後、裁判所務めをし、後に鴻池家の顧問となり、大阪商業会議所の会頭として終わった人である。
 児島と土居が脱藩し、維新の志士になったのは、龍馬の影響と言われている。
 余談だが、私は坂本龍馬は好きでも嫌いでもなく、どっちか選べと言われたら好きに入るが、まあ、たいした功績を残してはいないと考えている。功績としては、薩摩と長州を動かし、薩長同盟を結ばせたことだけじゃないかとすら思っている。いま評価されているのは、早死にして、しかもドラマチックな死に方だったということと、もうひとつは、司馬遼太郎『竜馬がゆく』の影響だろう。
 龍馬を「好きでも嫌いでもなく」と言ったが、「龍馬が好き」と言う人で私が好きになる人はまずいない。その人たちには、おおむね「司馬龍馬」の影響が見えるからである。これは半分くらいは冗談であるが、半分以上は本気だ。足すと1を超えちゃうけどね。
 とは言っても、飲み屋で偶然隣り合ったおじさんが、「おれは龍馬が好きだ」と言ったら、「ふーん、そうなの」で終わりだが、こういった「龍馬好き」が、社会にそれなりに影響を与えるポジションにいた場合は、あまり心おだやかではいられない。功罪で言えば、罪のほうが大きいだろう。
 私は、司馬遼太郎の小説も、あまり好きではない。司馬史観などと言われているが、小説は英雄史観であり、私は腐ってもマルクス主義者なので(だいぶ腐ってるけどね)、歴史は名もない庶民が動かすと信じているからだ。
 英雄を描かず、一般庶民なんぞを描いてたって小説にならないだろうとお思いかもしれないが、そんなことはない。藤沢周平は、名もない人間を描き、見事である。
 と言っても、私は、司馬遼太郎を全否定しているわけではない。『街道をゆく』は好きなシリーズで、全巻ではないが、相当読んでいる。あのシリーズは、歴史地理という領域では優れている。
「話は変わる」から、変わるにもほどがあるな。「変わ」ったあと、さらに「余談」になり、司馬遼太郎の話になってしまった。
 宇和島ネタは、1/3程度しかない。宇和島、ごめん。

宇和島紀行81204

 前回、2/3が宇和島以外ネタだった。宇和島ネタが切れたわけではない。「話は変わ」り過ぎたのは、司馬遼太郎と『竜馬がゆく』のせいである。
 宇和島ネタでまったく触れなかったのは、たとえば闘牛である。スペインの闘牛は、牛対人間によって繰り広げられるが、宇和島の闘牛は牛対牛である。その分、イーブンな感じがする。それに対し、スペインのそれは決着が前もって決まっており(でもたまに番狂わせがあるらしい)、ワンサイドゲームだ。まあ、その過程を楽しむものなんだろうけど。落語なんて、発端からオチまでわかってても楽しいもんなあ。
 宇和島の闘牛は、年に数回しか開催されず、フラッと宇和島に行った人間に見られるものではない。私らが宇和島市営闘牛場に行ったときも、当たり前だが、開催されていなかった。その代わり、管理人のような方から、ゆっくりとお話をうかがうことができたわけである。
 その方によれば、現在では、ボランティアのような形で闘牛は継承され、いただいたパンフレットの「横綱」を飼っている方の本職は看護師さんだという。
 井上靖の小説に『闘牛』(1950年(昭和25年)、第22回芥川賞)がある。これは宇和島の闘牛をイベント化したもので、1947年、西宮球場で開催された。
 当時大阪毎日新聞に在籍していた小谷正一が企画、運営したイベントで、同僚だった井上靖がそれを小説にしたものだ。
 小谷は同社を退社した後、吉田秀雄に乞われ電通に入社、東京オリンピックを担当するなど、活躍した。一般的な知名度こそないが、業界では超のつく有名人であり、電通退社後は独立事務所「オフィスK」を設立した。
 私ごとになるが、ある件で小谷さんに呼ばれ、赤坂見附にあった「オフィスK」にお邪魔したことがある。「小谷さんに会える!」と思い、ドキドキしたことをおぼえている。30歳ごろのことだ。
 井上靖でも思い出したことがある。
 井上靖、平山郁夫、江上波夫の鼎談のテープ起こしをやったことだ。シルクロードのどこやらでの鼎談である。井上靖は、日中文化交流の場で平山郁夫(日本画家)と知り合い、終生親しく行き来した。井上靖には『敦煌』があるし、平山郁夫にはシルクロードの連作がある。江上波夫は歴史学者で、騎馬民族説を提唱した。土地鑑は十分である。そんなことでの鼎談だと思う。
 下請けの下請けとしてやった仕事で、私が20代前半のころ。当時は、人の声を調べられるインフラなどない。どの声が誰だかわからないので、A、B、Cとして提出した。あれがどの本に載ったのかは、下請けの下請けたる私にはわかる由もない。今度探してみるかな。
 今回も、宇和島ネタは1/3程度しかなかったな。宇和島、ごめん。

 
宇和島紀行91205

 宇和島と言えば、まずはじゃこ天である。
 秋田県の佐竹敬久知事が、2013年の全国知事会議で四国を訪れた際の体験談として、「酒はうまくないし食い物は粗末」「じゃこ天は貧乏くさい」などと発言したことがマスコミで報じられ、じゃこ天は望まぬ形で全国区になった。
 この暴言のおかげで、県外からもじゃこ天の注文が舞い込むようになり、秋田県からも「うちの知事が失礼をした」というメッセージとともに、注文が来るようになったという。これはいい話だ。行政なんかを飛び越えて、民衆は連帯する。
 我がシェアハウスでは、マエダ(夫)のおかげで、宇和島のじゃこ天をこの騒動前から知っており、堪能していた。宇和島のなかでも「とびきりうまい」(マエダ(夫)談)ものを食っていたのである。
 ついでに言うと佐竹の間違いは、じゃこ天だけにとどまらない。「酒はうまくない」は、まったくの間違い。うまい地酒がいくらでもある。佐竹に「尾根越えて」を飲ませてやりたい。でも、もったいないな。料理だってうまいぞ。
 佐竹は間違っていたが、実はマエダ(夫)も間違っていた。というのは、地元出身のマエダ(夫)は、じゃこ天仙台起源説なのである。仙台のかまぼこが、伊達つながりで、宇和島にもたらされたというのがマエダ(夫)学説の基軸である。
 実は、私の義父が仙台出身で、仙台のかまぼこにはそれほどの歴史はないと、私は聞いていた。
 塩釜蒲鉾連合商工業協同組合・橋沼幸平さんによると、「明治ごろ、宮城県を中心に三陸エリアでタイやヒラメがたくさんとれた時期があり、加工品の一つとしての位置づけでできたと聞いています」となる。これは、NHK仙台のホームページからだ。
「明治ごろ」はなんとも大雑把だが、私は、義父から、それを明治2年と聞いていた。
 よって、マエダ(夫)学説はきわめてあやしい。
 私は、じゃこ天薩摩揚げ起源説を採る。鹿児島、宮崎、熊本あたりでも、あれは天ぷらと呼ばれるが、宇和島でも天ぷらと呼ばれるようだ。そもそも、じゃこ天の天は天ぷらの天だろう。その天ぷらのなかでもじゃこをどうこうしたものという意味なんだと思う。
 藤原純友は、もともと海賊を取り締まる側だったのが、宇和島あたりで海賊になってしまった人だ。ただ、これは『日本紀略』など、「官」側の資料においてである。純友に限らず、村上水軍や根来衆、遠くは安東水軍など、日本には「水の国」が多々あった。海賊ではなく、あれは「国」なのである。ちなみに、『古代史津々浦々』(森浩一)は、そのほとんどがこの「水の国」の話であり、示唆に富んでいる。
 純友らが海賊と呼ばれるのは「土の国」がただ勝利したからだけなのではないか。「水の国」の資料さえ残さないほど、「土の国」が勝利したからではないか。
 天ぷらは、ポルトガル語語源と言われ「テンペロ」(料理)、あるいは「テンポラ」(斎日)のことではないかと言われている。斎日には肉を食べず、魚や野菜に衣を付けて油で揚げた料理を食べた。そこから来たという説と、寺院(テンポラス)で食べるものという説などがある。いずれにしても、ポルトガル語語源というところは共通している。
 だから、ポルトガル人が来てから天ぷらが普及し、まだかすかに残存する「水の国」のルートを通じ、「天ぷら文化圏」が形成されたのではないかというのが私の夢想であり、ロマンである。

宇和島紀行101206

 縦が短辺、横が長辺の長方形を描く。この長方形が四国全体で、左側の短辺のおおよそ半分あたりのところが宇和島市である。だから私は、宇和島市は四国最西端の都市であると思っていた。
 実際には宇和島市は、八幡浜市よりも南南東に位置している。だがJR四国・予讃線の特急列車の終着駅であるため、地元住民以外には愛媛県の最西端の市と思われがちである。
 2020年(令和2年)の人口は70,809人。
 海岸線は入り組んでおり、それにより良港に恵まれた。鉄道の開通する前は、陸路より水路をたどったほうが、宇和島へ行くには楽だったはずである。
 この地形により、漁業も盛んである。
 養殖(ハマチ、マダイなど)も行われた。周辺地域も含めると鯛類の養殖では日本一の産地と言っていい。
 特筆すべきは、真珠である。真珠の生産量のトップは、誰でも御木本真珠の存在がまず頭をかすめ、三重県だと思うだろうが、三重県は3位。1位が長崎県で、愛媛県は2位である。しかも、1位、2位は僅差(900kg)だが、三重、愛媛はダブルスコアである。
 真珠養殖も含め、水産業は平成の中ごろ、魚価の低迷やアコヤ貝の大量死などにより、廃業が相次ぐなど苦境の時期もあったが、平成後期以降は漁価も安定するなどし、経営環境はよくなっているという。
 実業界にも、宇和島は人を送っている。
 たとえば、井関農機は、1926年(大正15年)愛媛県松山市新玉町に「井関農具商会」として井関邦三郎によってその前身が設立されたが、井関は宇和島の人である。
 また、山下汽船を創立した山下亀三郎も宇和島の人だ。「開運王」などと称されていた。横浜の山下公園は、亀三郎の寄贈によるものだ。山下町という町名も、亀三郎と関係があるのだろうか。あのへんは、人の名前を冠した町名がいくつかある。
 明治から昭和初期にかけては日本郵船と大阪商船の2社が飛びぬけていたが、太平洋戦争開戦時においては、山下汽船はこの2社に迫る会社となっており、運用船では両社をしのいでいた。
 敗戦により、山下株式会社は財閥解体で第五次持株会社指定を受けることになった。
 宇和島紀行の最後に、小説家・吉村昭の『旅行鞄のなか』(文春文庫)より「宇和島への旅」の一部を紹介する。獅子文六をはじめ、宇和島に魅入られた文人は多いが、吉村は、宇和島を60回も訪れたという筋金入りである。

 宇和島の魅力をあげると、人情がきわめてよいこと、食物がきわめて豊富で美味であること、風光がきわめて美しいこと、と、きわめてを連発したくなる。宇和島は町の中央の山に城の天守閣のそびえる由緒正しい城下町である。

亀の手考1207

 宇和島紀行の続きではあるが、舞台は八王子になるので、別タイトルにした。
 表題の「亀の手」は食い物である。出会いはおおよそ1年ほど前。場所は、八王子の志村ホールという居酒屋である。いちょうホールへ落語を聴きに行った帰りだ。メンバーはマエダ(夫妻)、毎度おなじみケイコさん、我がシェアハウスのおばさん、私である。
 メニューを見たマエダ(夫)が、「へぇー、亀の手なんてあるんだ」と感嘆の声をあげ、注文した。私は、亀の手は初耳だし、初遭遇だった。聞けば、マエダ(夫)の出身地、宇和島でも食べるという。
 出てきたものを見ると、確かに亀の手に似ている。「これ、フジツボみたいなもの?」と、私はマエダ(夫)に聞いた。「そうでしょうね」と返ってきた。マエダ(夫)は、宇和島育ちでスキューバダイビングもやっていたので、生えている形態を知っていたものとみえる。
 私はその形状を見、また伊豆の西海岸あたりではフジツボも食用にすることを知っていたので(みそ汁の出汁をとる。なかなかうまい)、そう質問したのである。
 一見貝類に見えるが、カメノテは、ミョウガガイ科の甲殻類だという。石灰質の殻を持ち、岩礁海岸の固着動物である。
 甲殻類は、節足動物だ。カメノテは、分類学上は甲殻亜門とされる。エビ、カニ、オキアミ、フジツボ、ミジンコ、フナムシ、ダンゴムシなどが甲殻類に含まれる。「フジツボみたいなもの?」は、あながち外れではなかったことになる。
 亀の手の石灰質の殻と、牡蠣の殻は相似器官なのだろう。
 相同、相似はもともと数学用語だろうと思う。もっとも、数学では相同ではなく合同だが、この相同、合同は、原語では同じ言葉のような気がする。
 生物学で相同と相似を区別したのはリチャード・オーウェン(1804年7月20日–1892年12月18日)である。オーウェン以前は相同(似ている)だけだったところを、相同と相似を分けて考えるようになった。
 ある器官が形態的には似ていなくとも、発生的には同一である場合、相同性がある、相同であるといい、そのような器官を相同器官と呼ぶ。たとえば、コウモリの翼とヒトの腕は似ても似つかないが、相同器官である。
 一方、生物の種間で、機能的・形態的に同じに見える形質が、それぞれ発生的には別である場合が相似器官である。コウモリの翼とチョウの羽は相似器官だ。このように、異なった起源のものが、ある条件の下で似通った形をとることを収斂進化という。
 数学では、このあたりは非常にすっきりしていて、大きさと形が同じものを合同といい、形が同じでも大きさが違うと相似になる。
 話を亀の手に戻すと、こういうものを食いながら連綿と生きて来た人たちに悪い人はいないと、私は直観した。それが宇和島に興味を持った発端である。こうは言っても、亀の手は決してまずいものではない。むしろうまい部類だが、いかんせん、効率が悪い。
 ちなみに、今回の宇和島行では、亀の手は食えなかった。季節が違うのだろうか。

ガイヤ考1208

 愛媛県の宇和島を車で走っていると、「ガイヤ○○」という看板をやたら目にする。たとえば「ガイヤ食堂」「ガイヤ観光」「ガイヤタイル工業」「ガイヤ・ロジステック」等々。宇和島滞在中、20件やそこらは目にしただろうか。
 ガイヤはガイアと同じで、書き方が違うだけだと私は考えた。私の小学生のころはギリシャだった。それがいつの間にかギリシアになり、いまではギリシャなんだか、ギリシアなんだか私にはわからなくなっている。たぶん、文部省のせいだ。だから、看板で見たガイヤは、ガイアのことだと思ったのである。
 それで、宇和島の人は、後述するガイア仮説になにか強烈な思い入れでもあるのかなと考えた。ガイヤ=ガイアと考えたら、これは当然のことだと思う。
 私の知っているガイアはひとつしかない。ガイア仮説のガイアである。まずガイア仮説は、とても魅力的ではあると言っておく。ガイア理論などと呼ぶ人も多々いるが、実はこれは理論でもなんでもない。仮説でもまだ甘い気がする。だが、これを科学ではなく哲学、文学、ロマンと考えれば、なかなかに魅力的である。
 そもそも、ガイア仮説にも非常に大きな幅がある。範囲を大きくとり、地球は一個の生命体であるといったかなりなトンデモから、生物によって地球表層環境が変化していくその全体をガイアと呼ぶという穏健なものまである。後者なら、私でもついていける。
 だが、「科学的な理論」としては今日でも受け入れられていない。批判者の有名どころとしては、リチャード・ドーキンス、スティーブン・ジェイ・グールドがおり、この二人ににらまれたら、生物系の理論としては、もうペケである。
 ガイア仮説はNASAの科学者であるジェームズ・ラブロックにより提唱されたものだ。ガイアはギリシア神話の女神である。古代ギリシア語で大地、土、地球を意味する。地母神であり、大地の象徴と言われる。ヘシオドス『神統記』では、カオスから生まれ、タルタロス、エロースと並び世界の始まりから存在した神だ。これを原初神と呼ぶ。
 ガイアは、日本では『地球交響曲(ガイア・シンフォニー)』(龍村仁監督)という映画シリーズで広く知られるようになった。
 長々とガイアについて書いてきたが、ガイアとガイヤはなんの関係もないことがわかった。ワハハハハハ、ごめんね。
「宇和島紀行31129」で、「きさいや広場」の「きさいや」は「来なさいよ」だと申しあげたが、「ガイヤ」はそのデンで、「すごいよ」なんだそうだ。
 でも、マエダ(夫)は、『ガイア・シンフォニー(地球交響曲)』の広告を見て、最初は、「どんなにすごいシンフォニーなんだろう」と思っていたそうだから、まあ、私と大同小異だな。だから、お互い友だちでいられる。70歳を過ぎてできた友だちなんて、貴重品以外のなにものでもないよ。

【Live】『金壺親父恋達引』1209

 12月7日は、文楽を見に行った。場所は江東区文化センター。最寄りは東陽町駅(東西線)である。国立劇場ができるまで、文楽はジプシー公演になる。
 演目は『日高川入相花王』(渡し場の段)。これで、「ひだかがわいりあいざくら」と読ませる。それと、『瓜子姫とあまんじゃく』『金壺親父恋達引』。この公演は、後二者が見たくて行ったのである。ご贔屓の太夫さんは出ない。今回の東京公演は、彼が出るときにまた行くので、二回行くことになる。
『瓜子姫とあまんじゃく』は木下順二の作品である。私の記憶では、木下はこれを民話としてまず書き、後にそれを劇化したと思うが、どういうわけだか、上演作は民話のほうをテキストとしたものだ。武智鉄二演出により初演されたとプログラムにはあった。どうして劇化したほうを採用しなかったかは、まったくの謎である。文楽 → 語り → 民話ということなのだろうか。
『金壺親父恋達引』はモリエールの『守銭奴』の翻案で、中身もほぼそのまま。浄瑠璃化したのは井上ひさしである。浄瑠璃化にあたっては、井上の天才がいかんなく発揮されていて、ほぼ冒頭の

 あんまり逢いたさ懐かしさ、
 庭の見回りにかこつけて
 逢いにきたやら南やら

のくだりで、私は完璧にまいってしまった。「あんまり~」は『野崎村』のパロディ。説明するまでもないが、「逢いにきた(北)やら南やら」である。こういった感じの地口は、浄瑠璃に頻出するもので、これだけでも十分に浄瑠璃感を醸し出す。
 私は、『ひょっこりひょうたん島』を思い出した。あれも名作だった。私が井上ひさしを知ったのは、『ひょっこりひょうたん島』である。
 この両作品は東京では初演なのではないか。
 さて、1時半というヘンな時間で終わったので、私らは砂町銀座へ繰り出し、商店街を端から端まで歩き、おでんを売っている店で具材を買い、なおかつ出来上がったおでんを歩き食いした。インバウンダーどもがここらへんにまで跳梁跋扈するのか、店には、英語の説明書が書いてあった。ちなみに、谷中銀座、浅草あたりは、昨今インバウンダーだらけである。
 砂町銀座の銀座ホールという食堂で私らは大食大飲をし、都営新宿線から私鉄と乗り継ぎ、最寄り駅まで帰り着いてから、当然のように立ち飲みバーに直行した。このコースで同道者がマエダ(夫妻)とおばさんであることが判明しよう。マエダ(夫妻)は、文楽に関する進境著しく、この日は字幕なしで見ていた。
 前述の大飲と、立ち飲みバーでの追加飲で、私はマエダ(夫)のコートを着て帰ってきてしまった。酔っぱらいは仕方のないものだ。だから、コートを返しがてら、今夜も立ち飲みバーに行かねばならない。
 

【Live】弾劾訴追案否決1210

 韓国大統領の弾劾訴追案は、国会で否決された。与党から8人以上の「裏切り者」が出れば可決されるとされていたが、「裏切り者」は3人しか出なかったようだ。ただ、私はこれを「裏切り」とは呼びたくない。「邪な裏切り」と、「正しい裏切り」は、区別されてしかるべきだ。
 韓国大統領ユン・ソンニョルは、「ねじれ国会」において野党が反対するため業を煮やして戒厳令を発したようだが、これはそれだけで議会制民主主義を棄損する行為であり、それだけで十分弾劾に該当する事案である。6時間後に撤回したが、それでも許されることではない。
 戒厳令を布告し、兵士を国会に突入させ、野党議員を拘束するなどし、議事を進行させようとしたようだが、そんなものは議事でもなんでもない。非常時厳戒を表明する際、国会での野党の行為について「内乱を企てる明確な反国家行為だ」と言ったらしいが、これもとんでもない発言で、この男の国家観をよく表している。おまえ(ら)が国家ではない。国家はおまえ(ら)の外にある。そんなこともわからないのか。
 皆さん、と突然演説口調になるが、非常事態条項など、決して私らの国では許してはいけませんよ。大規模災害や、国家的な非常時には有効であるかもしれないが、今回の韓国のような使い方のほうが数的に多いだろうことは、子どもにだってわかる。
『毎日新聞』(12月5日夕刊)には、次の記述があった。

 国会周辺には多くの市民が集まり、戒厳令の撤回を求めて叫んだほか、兵士らの国会突入を阻止しようと小競り合いになる場面もあった。

 また、同8日朝刊には、ストックホルムにいたハン・ガンさんのコメントとともに、国会突入の命令を受けた兵士が、非武装の市民に向かい命令の実行を躊躇する姿が報じられ、上述の市民らが「人間の鎖」をつくり、立ちふさがったことも報じられ、その写真も掲載された。
 政治はろくでもないが、市民は偉い。兵士もその多数を、ここでは市民に入れてあげよう。
 これは、この事件では救いと言っていい。とてもいい話である。 だが、弾劾訴追案が否決されたことが小骨のように、私の喉に引っかかっている。
 話は変わるが、ここのところプライムビデオで、刑事ものを見ている。そこで学んだことは、「殺人があったら、それによって誰が利益を得るかをまず考える」ということである。ホントは、小学生のころ、ガストン・ルル―とか、そういうんで学んでいるけどね。思い出したということである。
 弾劾否決や、斎藤元彦現象や、トランプ現象、古くはアベノミクスまで、その殺人で、おっと、その現象、施策等々で、誰が、そしてどうやって利益を得るのかということも、考えることが必要になってきていると感じるが、これは「分断」が進んできていることと軌を一にしているのだろう。

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