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アルゼンチンで最も有名なファーストレディ”Evita”( エビータ) - ①

”1919年5月7日誕生ー1952年7月26日死亡 33歳”
何だか、こう聞いただけでドラマがありそう..と思ってしまいますね。

先日、エビータ博物館へ行ってきたので、折角なので、もうちょっと調べてみた。。。

愛称”エビータ” こと”エバ・ペロン”は、アルゼンチン元大統領ファン・ペロン夫人、アルゼンチンで最も有名なファーストレディなのです。
生まれた時の名は ”エバ・マリア・ドゥアルテ” 。1919年5月7日、ブエノスアイレスの農村地域で生まれました。彼女の出生場所や正確な誕生日については議論がありますが、通常はこの日付が正式なものとされている様です。

父フアン・ドゥアルテと母フアナ・イバルグレン、五人兄弟の末っ子です。
父親フアン・ドゥアルテは牧場主であり、保守政治家でした。 

ここまでは良いのですが。。。

父親は2つの家庭を持っていました。これは1940年代以前、田舎の上流階級の男性に広く行われていた習慣だった様です。つまり、”正妻の家庭”と”愛人の家庭”を持っていたということですね。

ほ〜、そんな時代だったのですね。。。日本は。。太平洋戦争か。。。🙄

残念ながらエバは愛人の子供だったのです。
当時アルゼンチンの法律では、出生証明書に "naturales"(実子) 、"hijos ilegitios"(私生児)などと記録することが義務付けられていました。エベは”hijo adulterino" (不貞の子供)という記録だったそうです。
そして、父親は1926年に亡くなってしまいます。家族は完全に無防備になりました。20世紀初頭の差別的状況の中で、子供時代のこれらの状況は、彼女に深い傷を残したようです。

”ど田舎の成金の愛人で、ど貧乏な母のもと、私生児として生まれた”。。と書いてあるものもありました。。。実際、彼女が感じた周囲の風当たりはこのような感じだったのかもしれませんね。

経済的に厳しい時代ではあったが、初等・中等教育を受けている間は、まだ少しはましだったようです。

1935年15歳の時、「女優になる」と言う野望を胸に、家出をしてブエノスアイレスに上京する。高等教育を受けていないエバは、ブエノスアイレスでは、日系人カフェで女給をしながら、最初は水着グラビアや広告モデルなどのモデルの仕事をしつつ、高級売春婦としても生計を立てていた。男を次々と乗り換えながら次第にビッグになってゆき、ラジオドラマの声優やB級メロドラマ映画に出演していた頃、将来有望な陸軍将校フアン・ペロンへとたどり着いた。

と言うように書いてあるものと。。。

アルゼンチンでは、1929年の経済危機があり、その後、産業発展に必要な労働力として、主に北部地方の農村部からブエノスアイレス市をはじめとする大都市圏へ大規模な国内移住が始まったそうです。そんな世の中の動きの中で、1935年1月、エバ 15歳もブエノスアイレスに移り住みました。エバ・フランコの劇団で脇役として仕事を得ることができ、1935年3月にコメディア劇場でプロデビューを果たしました。
それから数年間は、彼女は断続的に劇に出演していましたが、安い下宿に住み、苦難と屈辱の道を歩みました。次第に、二流女優として映画に出演したり、モデルとして芸能雑誌の表紙を飾るなど、徐々に知名度を上げていき、ラジオドラマの声優として活躍し始めた頃、1944年ルナ・パークで開催された式典でファン・ドミンゴ・ペロン大佐に出会いました。。。とさ。。。

ちょっと感じが違う。。。
市民登録簿も、ファン・ドミンゴ・ペロン大佐と結婚するために書き替えられたと言うような話もあり。。。色々と粉飾されている所があるのかもしれませんね。。。

エビータには聖女としての評判と、悪女としての評判が存在しているようです。


と言うことで、1944年にペロン大佐と出会いました。、
この出会いも、エバがパーティの司会者に頼んでペロン大佐のに近づいたと言うお話もありますね。。。


以後、政界に強い影響力を持つペロンの愛人として過ごし、その庇護の下で、自身のラジオ放送番組によってペロンの政治宣伝を担い、1945年に二人は結婚しました。

1940年代のエバ
悪女にの見えませんね。。。

                               。。。つづく

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