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俳句と芸術|俳句修行日記

 俳句なんて、わずか十七文字を拾い集めるだけ。それに、大家の句を並べてみても、どれもこれも似たり寄ったり。こんなところにボクは何をしているのだろうかと、首を傾げる。すると、「同じことは既に言われておるぞ」と師匠。80年ほど前、思想的社会的無自覚を指摘し、現代俳句に『第二芸術』のレッテルを貼り付けた文学者がいたというのだ…

「じゃがそれは、統一された美意識が万民に共有されておるという認識、それをベースにした比較論に過ぎん。そこでは理論が先立つ。その芸術は、理念が導く『絶対美』の反映を目的とし、芸術に、俗世界から離れた『特別』を求める。」

 師匠つぶやく。「果たして、誰もが認める芸術作品があるじゃろか」と。宗教画であれば、思想的背景で飾り立てることが可能だが、そこを離れた時、それは憎悪の対象にすらなる。
「そもそもこの芸術論は、素朴な感動を置き去りにしておる。」

 芸術とは、扇動という本性を秘める。芸術家というものは所詮、目的を持った評家の駒でしかない。そして、その色眼鏡によって、作品が制約を受けることに気付かない…
 師匠が言うには、俳句とは、他者が介在しないところで詠まれるべきものだと。さもなくば、万物に美が内包されているという事実にすら気付けず、おもて向きの修辞を競い合うだけのものになってしまうと。

 本来の俳句は、素朴な感動を簡潔に表現するもの。高潔を求めるよりも日常を詠めと。そうして、特別なところに喜びを求めるのではなく、身のまわりに光があふれていることを発見しろと。(修行はつづく)