四季と季語|俳句修行日記
暑さが通り過ぎたあとにすぐ冬が来て、「四季はなくなった」とつぶやいてみる。このままじゃ俳句は滅びる…
昨日までカッターシャツ着ていた師匠、今日はどてらにくるまって、「おまえは間違っとる」と。師匠によると、四季をつくっているのが俳句なのだそうだ。
そもそも、「連続する時間を四つに分断するのはどうしたもんか」と。俳人にあるまじき言葉ではないかと指摘すると、本来の四季とは、生きていく上で為すべきことを報せるためのものだったと言う。ならば、「与えられることに慣れきった現代人に必要なものだろうか」と、疑問を呈す。
どうやら、今日の師匠は機嫌が悪い。
季語は大きく春夏秋冬に分類されるが、細かく見れば、おかしく感じるところが少なくはない。ひとつには、明治改暦が唐突になされた影響があるのだろう。それは、暦文化に根差した生活を宙に浮かせ、新春を冬の真中に押し込めるなどの暴挙を働いた。よって、現代における慶事は、春夢に過ぎない。
だが、俳句はその夢をつなぎとめている…
それが、いいことなのかどうかは分からない。しかし、古い歳時記の分類は、ほぼ変更を加えることなく持ち越され、明日の暮らしを導くための『季の詞』は、季節感を生み出すための『季語』へと、姿を変えて文化を支えた。
生活が山野を離れた現在、その紐付けは、一日が明確な四季に彩られているとの錯覚を生み出す。そして師匠、「四目に分類することは、時の流れを無視することにつながっておる」と述べるのだ。
しかし、決して『季語』は否定されるものではない。常々、「季語とは切っ掛けじゃ」と言っている師匠である。分類は対象の絞り込みであり、無明の中に目を開かせる役割を負う。だが、そこに目覚めた者は、朝靄の中にとどまっていてはならない。何故ならボク達は、時間の中に生きている。変化にこそ、宇宙の真の姿があるのだから。
師匠のたまう。「季語の中に、季節を超えた明日を見つめよ」と。(修行はつづく)
舞い込むニュースに心いたむ年始となってしまいました。被災されました方々に心よりお見舞い申し上げ、皆様の安全と、一日も早い復興を心よりお祈り申し上げます。