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運命をなぞる景色|俳句修行日記

 最近は、道端で猫を見かけることがない。聞くと、「外は危険がいっぱいじゃから、みんな家ネコになったんよ」と。「狭い世界で暮らすことになって可哀そうだな」と言うと、「すべては気の持ちようじゃ」と師匠のたまう。
「俳句の世界も同じじゃぞ。定型の中に表現の自由を縛り付けることは、詠みあげるほどに単調さを感じて行き詰る。しかし、それを打ち破る力がなけりゃ、どんな世界に生きていても退屈するもんじゃ。」

「狭い世界に置かれることは、おのれを見つめるチャンスなんじゃ。そこに多彩なものを見て面白みを感じられるようになれば、人生の勝者といえる。俳句は、限られた世界の中に無限を感じるためのよきツールじゃ」と。

「ほれ、ネコと一緒に留守番することを考えてみ。ネコに引っかかれるのを怖がっとると、部屋の狭さが恨まれてならん。ネコ好きは、ネコに通じようが通じまいが言葉が出てくる。そこに幸せを感じてな。俳句とはそれと似たようなもんよ。」
 そう言って師匠、俳句の修行と称して猫カフェに…

 しかし、こんな時間に猫カフェ開いとるか?ワシは、にゃんにゃんクラブとみた。


 どうやら、ボクの勘は当たってたかも。掌にマジックの落書きがあって、それをしきりに気にしている。さらにはボクに「手を見せろ」と言って、生命線がどうとかつぶやいている…
 大仰なことを言いながら手相を気にしている師匠に幻滅し、大きくため息をひとつ。すると、「俳人は、景色を心に刻んで自分の立ち位置を言葉に表す。手相も同じじゃ。掌に現れた啓示によって、自らの立場をわきまえるもんぞ」と。

「むしろ俳句は、手相を見て発せられる『つぶやき』、そのようなものでなければならない。漫然と景色を見て言葉を並べるだけのおまえのようなモンなら、まずは手相見からスタートじゃ。」

「掌から視線を上げてみ。見える景色が、自分の運命をなぞるものに見えてくるはずじゃぞ。」

 何かおかしな方向に走り始めたなと困惑していると、「それ一句!」と師匠。
 分かり申した、ここに一句差し上げ申す。「地丘から出づるミミズの短くて」(つづく)