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句会と絶対美|俳句修行日記

 実力を見せつけてやると意気込んで句会デビューを果たしたのだが、ボクの俳句が詠みあげられることはなかった。翌朝、ショックを引きずりながら仕事をしていると、師匠が頭をはたいて「おまえは俳句というものを理解していない」と。師匠が言うには、『柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺』という、子規の超有名な俳句も、当初は評価が低かったのだとか。

「俳句に絶対はない。そもそも、この世に絶対美なんぞ存在せんのじゃ。対象物は、観察地点によって形を変える。おまえも、きのう詠んだ俳句が今日は響いてこんといった経験を持つじゃろが。俳句は、鑑賞する場所やタイミングによって印象を変える。やから、昨日の俳句を別の場所に持って行けば『特選』とされることもあるじゃろう。」

 なぐさめてくれているのかと思いきや、師匠の声が突然大きくなって、「それよりも句会に臨む姿勢が悪い!」と。
「俳句は、自分をアピールする道具じゃないぞ。競争目的で利用するなら、心身ともに疲れ果てて言葉は荒ぶ。それならば句会になんぞ参加せんほうがええ。」

 師匠が言うには、句会とは他者と自分を知るためのもの。同じ場で詠まれた俳句とそれに対する評を味わい、自らの句と比較する。これにより、違う視点を体得し、より広い世界に羽ばたこうとするものなのだと。
「分かったか」言われて、小さく「ハイ」と言ったはいいのだが、やっぱり他人が評価してくれなきゃ遣り甲斐がない…
「満天の星も堕ちるや流れ星」(修行はつづく)