見出し画像

時を生きる

社会の考えで生きては行けない、と思ったのは最近のことじゃない。
多くの人が共通して持つモノサシで測られるコトがとても違和感。
人ってもっと括れない未知な存在だって。
誇らしくなければならないって、なにかハッキリした位置がなければならなくて、でもそんな自分になれたところを想像してもワクワクなんか無い。
じゃあなんなんだ?って聞かれると答えるには、あまりにも言葉では捉えられないスケールで、というか言語では追いつけない畑に在るんだ。

思考は、生き物だと思う。
多くの人が近い思考を持っていて、それが大多数だとその社会が出来上がる。それで回る世界となる。
僕はそこに居心地悪さを感じてる。
じぶんの考えや視え方を話す時、できるだけ社会の人の常識や倫理に逸れないように補い言葉を加えながらなんとか薄めて説明しようとするぐらい怖がり。
でも自信を持っていいんだって。
なぜなら、僕は社会の考えになるつもりはないから。社会が価値を感じているものと離れているものだから。

じぶんの世界から、社会へ行かないといけない朝、そこへ行きたく無い。
とても煩わしくて邪魔だと思う。それでも僕は人混みの中で、じぶんの考えに注意を向けて息継ぎをする。ずっとこの注意の先で生きる自分を想像して。
ひとに否定されることが怖くて、じぶんの考えや視え方が話せないのはこの社会の中では意味不明だからだ。
だけど僕は、勇気と誇りを持つべきだと自分に思う。
だって僕は、こっちで生きる者だから。
となりのまた別の世界にいるだけで、僕の出身はココじゃない。
だからそんなに否定されたって、だってココでは生きられないんだからって言えばいいって。
ココでうまく生きようとしてきたけれど、時をかければそれなりの人間になれるかもしれないけれど
だけど、僕は本然の人間になりたいから。

ヒマワリは本来、大空と太陽のしたで上を向いて大きく育つ。部屋の隅っこにいるわけがない。それじゃあヒマワリがもったいない だから。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?