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人はなぜ旅をするのか?アインシュタインの名言から考える人生観

今回はいつもの内容とはちょっと変わり、「人はなんで旅をするんだろう?」という疑問に対して私なりの考えを綴っていきたい。
というのも、私はよく「あんた何考えてるのかわからないねえ」と言われてしまうため(自分でもよくわかってない)、大きな影響を受けた言葉を通じて自らの人生観を明文化してみようという試みである。

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実は以下の文章はもともと「人はなぜ勉強をするのか?」という題で高校生向けに書いた文章なのだが、旅に関しても同じだとふと気がついたため少し加筆修正したものになる。
ちなみに元の文章については編集長的ポジションの人の異次元的な多忙と、その他私に関係のない人々のよくわからん対立により計画そのものが吹き飛んでしまい、書いていた記事は全部お蔵入りになってしまった。この仕事に関わってくださった方々にはこの場をお借りしてひっそりと怨嗟の念を申し上げさせていただく。

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本題

今回ご紹介するのは超有名な物理学者、アインシュタインの名言。

The more I learn, the more I realize I don't know. The more I realize I don't know, the more I want to learn.
――Albert Einstein

一応文法事項も言及しておくと、The 比較級 S V, the 比較級 S V.で「〜~すればするほど、…...になる」と訳せるため、日本語訳は「学べば学ぶほど、自分の無知さを思い知る。そして自分の無知に気が付けば付くほど、もっと学びたいと思うようになる。」といった感じになる。

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この図は私の頭の中のイメージを描いたものだが、結構わかりやすいと勝手に自画自賛している

広大で複雑なこの世界の中に知っている世界、自分の世界が存在する。そして、「知らない世界」というものは「知っている世界」の縁に存在する
つまり、左側のあまり世界を知らない状態では、知っていることも少ないが知らないことも多くはない。
一方で右側の様に自分の世界が拡大されてくると、知っていることが増えた分、知らないことも増えている。

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そもそも何も知らない状態だと「知らないことに気づかない」わけだ。
知らない世界へと踏み込んでいくと、そこから関連してまだまだ知らない世界があることに気づく。

知らない知識を知るというのが学びの本質であると思うし、もっと知りたいという好奇心が全ての原動力となっているのだろう。
逆に何らかの目的のために学ぶというのは持続性の面でも、効用面でもあまり実りのある学びにはならないはずだ。

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旅についても同様で、まだ見ぬ景色、文化、空気感を知りたいというのが動機となっていると思う。
そして、実際に旅に出たからといってその好奇心が消えることはない。むしろ、現地に行ったからこそ余計わからなくなるということが多いように思える。

それでも、わからないということを自覚した時点で、知らないのに知っているつもりになるよりはだいぶ良いだろう。
これに関連する概念としてソクラテスの「無知の知」というものがある。

「私はこの人間よりは知恵がある。それは、たぶん私たちのどちらも立派で善いことを何一つ知ってはいないのだが、この人は知らないのに知っていると思っているのに対して、私のほうは、知らないので、ちょうどそのとおり、知らないと思っているのだから(14)。どうやら、なにかそのほんの小さな点で、私はこの人よりも知恵があるようだ。つまり、私は、知らないことを、知らないと思っているという点で」
( プラトン(納富信留訳) 『ソクラテスの弁明』より引用)

ただ実際には「無知の知」という言葉は適切ではなく、ソクラテスの言葉もかなり間違った解釈をされることが多い。引用文中の注を見ると、

「知らないと知っている」とは語られておらず、「知らないと思っている」とされる点に注意。

となっている。

つまり、「知らないということを客観的事実として知っている」は誤りであり、あくまでも主観的に自覚、認識しているというわけだ。
私も旅行記ではよく「気付いた」とか「実感した」という言葉を使うが、はっきり言ってただの主観的感想でありそこには普遍性も不変性もない。実際のところ、旅の途中や、帰ってから意見がコロコロ変わることも珍しくない。

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世界を切り分け、伝えていく者は傲慢であってはならない。ジャーナリズムにおいて真に重要なのは常に謙虚な姿勢でいることだと思う。自戒の念を込めて明文化しておく。

この言葉との出会い

実はどこでこの言葉と出会ったのかは忘れてしまった。おそらく高校の教科書とか単語帳のコラムに書いてあったのだと思う。

私は中学生の頃はわりと無気力おばけだったため自分の知らない世界に興味など微塵もなかった。
自分の世界の狭さを認識しつつも、「知らない世界なんて大したことないだろう」という思いがあった。自らの視点から見える範囲のさらに奥に、広大な未知の世界が広がっていることに気づかなかったわけだ。

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そんなわけで勉強も定期考査前にちょこっとするぐらいでほとんどの時間をゲームに費やしていた。この時間が無駄だったというわけではなく、ゲームを通じて世界地図を完璧に暗記したり、MOD制作やセーブデータを弄っていたらプログラミングに興味を持ったりと今の私を構成する要素であることは間違いない。
しかし、「中学時代は遊びまくってたけど楽しかったからオーケー!」と言えるほど楽しくなかったのが絶望ポイント

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この状態からなんとか脱却できたのは、高校に入学して未知の世界の広大さを嫌というほど実感したからだ。正直なところ、本当に運が良かったと思う。周りの友人や先生方が様々な形で未知の世界を教えてくれたのだ。

そして、その世界を知るために必死に勉強したし、今まで興味を示さなかった様々なことに挑戦した。部活では会計で走り回ったり、委員会は委員長で権力を振りかざしたり、遊びも長期休暇中にチャリで遠出したり、海に行ったり、山に行ったり、ネズミの国に行ったり……ってなんか文章にするとめっちゃリア充っぽいなあ。本当はそんなことないのだが。

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実は、これらは全て自分から能動的に行ったわけではなく、いつも周りの誰かが持ってきてくれたのだ。「とりあえず始めてみれば後からやる気が出てくるかもしれない」という謎のポジティブシンキングでそういったチャンスをバリバリ回収していったわけだ。

そんなわけで、アインシュタインのこの言葉は高校生だった私にかなりの影響を与えたのだが、現在においても自分の世界を外へ外へと拡大していくことを意識していると思う。その一方で大学に入ってからはもう少し批判的に、別の視点からの解釈を導入している。

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別の視点

批判的に考えてみると、知らないことが限りなく増えていくという事は「知識をつけることを目標にするだけでは終わりがなく無意味である」と解釈することができる。
例えば、英単語を1万語覚えたところで読解の方法がわからなければ英文は読めないし、喋り方がわからなければコミュニケーションはとれない。
もちろん知識だけでなく、経験や価値観など広げた世界の中で獲得したものを利用し、自分をどう構成するかが重要になってくる

自分の世界の中で、日々の暮らしの中で、新たな価値を発見しそこに楽しさや幸せを見いだせたらそれはとても素敵なことだと思う。
実はこの考えに至ったきっかけはフィリピンでの出来事なのだが、考えを確立させるまでには半年近くかかった。
そしてちょうどその頃、FR0M SCRATCH というラーメンを0から作る謎集団に関わることになる……。

結論

そんなわけでこんくるーじょん。高校生だった私に大きな影響を与えたアインシュタインの名言を通じて私の人生観についてごちゃごちゃ書いてしまったが、私が大切にしていることは以下の通り。

1. 未知の世界を認識し自分の世界を外へ外へと広げていく
2. 自分の世界の中にある新たな価値を発見し自身を構築する

この2つは相反するものではなくどちらも同じ様に重点を置いているが、最近では2の方をより重視していると思う。
というのも、某ウイルスの蔓延により半年以上前からちまちま計画していた旅の予定が全て吹っ飛んでしまったが、ゆっくり自分の世界を見つめなおす良い機会にもなったということだ。まだ明文化はできていないのだが、自分の世界をじっくり見直して見えたこと、感じたこと、経験したことを大切にしていきたい。

……といったところで今回はここまで。


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