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歴史について(歴史修正主義)

史料はちょうど記憶のように、無数の記録となって与えられている。歴史家はこれを分析して、その彼方にあるものを探求しなければならない。その結果がたとい現在の否定となり、人々の光栄を損ねるものであったとしても、ひとはオイディプスのごとく、自己存在の由来を問わなければならない。この意味において、歴史家の仕事は真に良心的でなければならない。
(紙徳真理子氏の記事より引用 https://note.com/kamitoku/n/n478fbb5e943a)

日本の戦後のアカデミー(東京大学・京都大学を含む)における日本の近代史について、常にこのような立場であれば、現在のような状況にはならなかったであろう。

アカデミーは、リベラル・アーツと称して学際的な探究を主張しているが、実際には、マルクス史観を隠蔽する為の【用語トリック】に過ぎない。

彼らは、【正しい歴史はただ一つ】ではないとして、【歴史修正主義者】とレッテルを貼った【主張】をする側への批判としているが、実際は【戦前の日本国】を【抑圧的軍国主義】【非民主主義】【ファシズム】【侵略国家】【国際協調無視・軽視】という【マルクス史観】による【単一】の【史観】による尺度で固定している。いわゆる【教条主義】である。

又、アカデミーの【学問・研究】と、民間で行われる【研究】を【差別】していて、前者は【高級・高等】、後者を【低俗】などと【侮蔑】している。
しかし、歴史に於ける史料発掘などでは、民間も大きな功績・活躍をしているのである。

確かに、アカデミーでは、予算や時間などが大学などの営利教育機関から与えられて、より専門的な【研究・実験・分析】が出来るので有利な立場には変わりはないし、多くの功績を挙げておられる研究者がいるのは間違いがない。

ただ、社会科学の歴史学の近代史になると前提としての【戦前】の日本国を【悪い状況】【悪魔】にしているので、話がおかしくなる。

歴史家の仕事は真に良心的でなければならない。

現在これをやると彼らの【その結果がたとい現在の否定となり】という現状を生み出してしまう。自分たちの今までの【研究】が【否定】されると言う事になる。

それをやる為にも【良心的】であるはずである。

これを胸に刻んで、アカデミーは現状を【変革】すべき時が来ている。【教条主義】【マルクス主義】からの【脱却】をすべきなのである。

ソ連崩壊以降、【マルクス主義】の人々は、寄る辺を無くしてしまった。【桃源郷】としての【共産主義国家】が消えたからである。そして中華人民共和国も【資本主義】を都合よく利用する【資本国家体制】に変貌をとげたことは、彼らの精神の崩壊を伴ったことは間違いない。
故に、平和、フェニミズム、ジェンダー、人権、環境と言った所での【隠遁活動】に変化していったのが現状だろう。

行動様式や思想は、基本的に【分断】と【秩序混乱・崩壊】を目指すことに変わりなく。常に新しい【社会不安】をあおり立てる工作活動を主にされている。
例えば、【差別】にしても【差別解消】といいながら、新たな【差別】を生み出して、【社会】を【分断】しているだけで、本当に【差別解消】を目的としていない。フェミニズム、ジェンダー、環境も声高に主張する人々は、実際に【問題解消】を目指すというよりも、【問題】を【針小棒大】し、活動と資金集めに利用しているだけに過ぎない。

こういった活動の背景には【マルクス主義者】、つまり【共産主義者】がいつもいる。彼らの行動が【問題解決】になったためしはない。

歴史を【正しく見る】ならば、【マルクス史観】を持つ人間は、【共産主義者】の行ってきたさまざまな【害悪】を知り、反省することが必要だろう。

先の大戦もレーニン、スターリン、アメリカ共産党、中国共産党、日本の共産主義者が、暗躍し日本を【戦禍】に巻きこんでいったのである。

確かに、それだけが【原因】ではないが、それを無視して過去の【日本国】および【日本人】を【悪】にする【史観】を【教条主義】的に押しつけようとしても、このネットの発達した社会では誰も納得出来ないであろう。
むしろ、【害悪】のある【政治工作】にしか過ぎない。
学問というのならば、【真に良心的でなければならない。】を旨に【他の史観】も含めた考察と次の世代の若者達への教育をすべきと考える。

歴史修正主義者、つまり【偏った史観】を【唯一の歴史】にしているのは、むしろ、アカデミーによる【リベラルアーツ】であることを悟り、態度を変更すべきなのである。切に希望して止まない。

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