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別に清水潔氏が立証出来たわけではありません。

テレビマンであって、日テレ(読売新聞)の深夜番組で、南京事件についての【虐殺】という【感情評価付用語】の【事例があった】とするドキュメント番組を作成されて、それに関する著作を書かれて、比較的著名な方だが、当然、南京攻略戦周りを研究したり、興味があって調べている方から比べると、初学又は入門レベル的な位置の知識に留まっておられる方である。
一応ジャーナリストを名乗っておられるので、いつもの通りの【誰かの情報】を単に横流しして【事実】としているジャーナリスト特有の無責任と杜撰さを提示されている。
この清水氏が、東京裁判に於ける【南京暴虐事件】として告訴された事案について【裏付け】をとれたわけではない。
元ネタの小野賢二氏が収集した第13師団山田支隊(104旅団)の第65連隊会津若松の部隊少尉以下の兵士の日記やインタビュー映像・音声記録をちょろりと聞いて番組に編成したにすぎない。
中でも想像CGをつかって当時の再現想像映像を流したようだが、実際の日記の中の情報にはその様なものは存在しないことまで付けくわえられている。

他の偕行社などに寄せられた日記と併せた情報としては、16日の捕虜の仮収容所から【失火】があり、それを【捕虜】の反乱・反抗と見た連隊が人数不明の捕虜を【処刑】した事。
17日に上海派遣軍と考えられる司令部より何等かの指示を受けた結果、当日収容施設から全ての捕虜を引き連れて揚子江の中洲である【草鞋州】への渡船場がある【幕府山】の麓に行き、連行中又は集合後に【銃撃】がなされ数値不明ながら【多く】の支那兵が【殺害】され、日本軍兵卒も死傷者を出すに到ったと言う事がある。
それが現在判っていることである。

小野賢二氏を始め、この小野氏の史料を使用した清水潔氏は、この事例を以て【虐殺】という【感情評価付用語】に該当すると、【虐殺】を証明したと言及されているようだが、そもそも【虐殺】が【感情付用語】なので、事件を詳細に調べずに知れば、【酷い・惨い】となることは間違いないので、【虐殺】とするのは、あながち間違いではない。『南京の氷雨 虐殺の構造を追って』という幕府山事件を調査した阿倍輝郎氏は、その様な【感情】を持ったようである。
清水潔氏は番組冒頭で【捕虜殺害】は【戦時国際法】という【陸戦法規慣例に関する条約】の付則である【陸戦法規】に【違反】する事が【虐殺】の【エビデンス】として付けくわえられている。

そもそも【陸戦法規違反】とは、偕行社が【虐殺】とは何かを考えた際、国際的な評価に忖度した答えでもあるし、合理的な判断だったとも言える【定義】である。
現在は、【南京大虐殺】を【肯定評価】されている笠原十久司先生も【陸戦法規違反】【国際人道法違反】をその【虐殺】の【定義】とされている。

【陸戦法規慣例に関する条約】の付則【陸戦法規】への【違反】が【犯罪】となったのは、1998年による国際司法裁判所と国際刑事裁判所の設立でのローマ規定からである。
その中の【殺人】又は【大量殺人】について、実行を命じた人間・指揮した人間に対して、【故意】の【証明】が求められている。
では、山田旅団長や両角第65連隊長が、その【故意】についての【証明】が出来ているかと言えば、存在しない。
山田旅団長の日記が良く取りあげられている12月15日の記述がある。

捕虜の仕末其他にて本間騎兵少尉を南京に派遣し連絡す
皆殺せとのことなり
各隊食糧なく困却す

という記述であり、一見すると、南京にあった司令部に指示を仰いだ結果、処刑の命令又は支持を受けたという風にとれる。
しかし、上海派遣軍、その上部の中支那方面軍司令部からはその様な【命令】も【指示】も出したという記録はない。
中支那方面軍の参謀部の【捕虜】を扱う部門の第三課の榊原主計少佐は、【待機】の指示を出したとしている。
勿論、戦後の【証言】である以上、信用性は落ちるので実際には【処断】の命令を出したかも知れない。
ただ、この捕虜に関しては、捕虜の代表者と名告る人物が、解放又は食糧支援の嘆願書を天野三郎少尉(第3次補充)に托している。
故に【皆殺せとのことなり】につづく【各隊食糧なく困却す】が、【待機】するということは、【部隊の食糧確保すら困難な状況】で、【捕虜】への【提供】は難しく、既に【飢餓状態】の【捕虜】への【待機】は【死】を意味するとも受け取れる。
この3行は、セットであり、分けるべきではないと考える。
つまり、その後の行動は、火災事件が在り、一部を処刑後、さらに強行に走ったか、火災時件の後一部は反乱と皆して処刑はしたが、残部は中洲への解放を目指した途上での事故、前日の処刑の噂により中国兵が恐慌をきたしたので鎮圧の為の銃撃であったという2つのケースが考えられるが、実際の所、それを証明する手立てはない。
第65連隊第一大隊第2中隊第3小隊第2分隊長だった栗原利一氏のスケッチは有名だが、そこにも【島流し】という文言が書かれている。
当初の目的として【草鞋州】への【解放】を目指していたことを示すとも受け取れる。

以上示してきたように、【故意の殺害】か、【事故】かは明確になって居無い。
【陸戦法規】による【違法】かどうかは、ハッキリ言って【証明】されているわけでもない。
16日の宿舎火災後の【捕虜処刑】に関しては、【捕虜はお客様】ではなく、【一旦抵抗】があれば、【直ぐさま敵兵】にもどるので、日本軍の命令をまもる【義務】も伴っているので、このケースに限っては日記にある【子供】や【老人】が居ようと居まいと【処刑】は止む得ない。
又、【子供】は【一般人】ではないかという人もいるかもしれないが、米国もメジャー紙で、【戦時宣伝】という【虚偽情報】を流した、ニューヨーク・タイムズ社の特派員であったティルマン・F・ダーディン記者が、12月8日の時点で、湯水鎭の要塞で子供の兵士を目撃して記事に書いている。
又、日記は個人の主観が伴うので、中国軍の兵士の実際の年齢までは判らない。少年兵士は当時国際法では違反ではないので、特に当時の中国(今もだが)人権感覚が未熟であったので居てもおかしくはないのである。

【幕府山】を【虐殺】だというのは、簡単で確かに【惨く・悲惨】ではあるが、その他の【戦闘】に於ける【戦死】が【惨く・悲惨】と質的に変わりがないので、【戦争】による【戦闘死】の状態と何等変わりがない。
これを【虐殺】として特に何か特別な【戦闘死以外】の【不当行為】による【悲惨事例】の証明に出来るものでは無いし、東京裁判での【南京暴虐事件】では【草鞋峡のケース】とは異なっているので、何かを【立証】出来たというわけでもない。

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