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詩70/ 水の旅

彼女は
とある学校の理科室で
水素と酸素の混合気を燃やす実験で
微量の水として生まれた

そのまま
水蒸気として空へ

やがて
自分と同じような奴が集まってきて
綿みたいな雲になった

集まりすぎて
重くなったと思ったら
今度はいつの間にか
雨の雫になっていた

地面に落ちた彼女は
土の中に染みこんでいった
そして
木の根っこに吸い込まれ
気がつくと
その木の果実の水分になっていた

その果実を
とある人間が食べた
今度は彼女は
その人間の水分になった

血液になり
胃液になり
唾になり
涙になり
最後は羊水になり
生まれた子供と一緒に
また外の世界に出た

その後も
目まぐるしく姿と居場所を変えながら
地球の上を果てしなく旅し続けた
それは自分の意志ではなく
なるようにしかなれないこと
それは別に苦痛ではなかった

霧や大河や海原のような
清々しい環境ばかりではなく
淀んだ水溜りにもなったし
悪い薬の溶媒にもされた

どんな血や死骸だって
薄めて消化したし
ドブ川の水になっても
排泄物になっても
自分は水だから
そういうものだと思っていた
あるがまま
それが水の定めと分かっていた

しかし
彼女は一度だけ
突発的に
定めを拒否した

それは
断崖絶壁の下の
波高い海の水だった時のこと
彼女の上に
何かが落ちてきた

人間の子供だった

一瞬何が何だか分からなかった
崖から足を滑らせたのか
それとも
自分で

子供は
決心した顔で
騒がずに
しかし泣いていた
その涙が彼女に溶けた時
彼女は摂理に逆らい
子供を抱きかかえ
岸の岩の上へ押し上げていた

そうさせたものは
おそらく
羊水だったときの記憶

その子供の涙の匂いには
微かな覚えがあった

定めを破った彼女は
それからしばらく
記憶がなかった

そして気がつくと
ホーン岬の氷河の一部になっていた
もう当面の何万年かは
旅をすることなく
閉じ込められることになるだろう

それでも

彼女は無表情で
しかし穏やかに
ずっと南極の方角の空を見つめていた




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