万有引力は、愛だ②
さて、昨日はタイトル詐欺となってしまい、すみませんでした。
愛とは何か、私の考えを示す前に、日本での意味の変遷を紹介しました。
それを今から全て否定しようと思います。
正確には、否定というよりもより大きなアイデアで包み込もうという試みです。もっと言えば、切り分けてきたものを元の形に戻したい。
また少し歴史的な事実を紹介することになる。私の意見が酔狂なものだと思われて無視されたくないのである。
アリストテレスの重力論(アナロジー)
今度はギリシャにさかのぼってしまう。ギリシャにおいて(そしてそれは16世紀まで引き継がれるのだが)、世界は4つの元素でできていると信じられていた。
空気
火
水
土
の4つ。上から下へ重くなっていく。あらゆるものはこれらから成ると思われていた。
原始的な発想だけど、私たちも何と無く納得できるような気もする。
例えば、木を燃やした時に当然火が出る。またもくもくと昇っていった煙はいつの間にか空気の中に消えていってしまう。そして、これは田舎の人間しか知らないかもしれないが、木を燃やすと断面から液体がジュクジュクと出てくる。この正体は正確にはヤニというものだが、まあそんなことをギリシャ人が知る由も無いだろう。ともかく水のようなものが出てくる。そして、燃えた後には何が残るか、当然灰だ。もはや土だ。
このようにして物質は4つの物質からできていると言われていた。そして大地は土であるから、帰るべき場所を求めて物質は下に落ちるのだろう、と考えた。ロマンチック。
アナロジーの危険性
これが間違っていることは皆知っている。
なぜなら、AがBなら、CもDになる「だろう」。というアナロジー(類推)が働いていることをわかっているから。
なぜこんなことを言うかと言えば、まさにその手法を私が使うからだ。
アナロジーは、うまく機能すれば問題はないが、紙っぺら一枚分の勘違いを必要とする。
万有引力は、愛だ。
さて、本題だ。
アリストテレスの犯した失態はもう1つある。それは分析論の導入だ。
簡単に言えば、世界の全てを分類しようとした。それがのちの自然科学やその他のサイエンスの態度を作り出した。
アナロジーの何が悪いのか。例えばブラックホールが熱を発するホーキング輻射、その知識が何のためにあるのか。生きる上で問題は全くない。ただ、人間の探究心という欲望を満たしているに過ぎない。(学問をする人間として、基礎研究をおろそかにする今の日本の方針は許せないが)
また、話が逸れてしまう。戻そう。
私たちは、ニュートンの万有引力の法則によって引き合っている。
恋愛だって、私とあなたが惹かれ合っている。
全てのものは引かれ合う、だから私たちもまた、強く惹かれ合っているのだ。
肉欲的な、あるいは現代の結婚観的な愛は、二人の世界を独立させた。つまり、それ以外のモノに対しての愛を捨てさせることになった。
それは結果としてマイナスの感情、嫌いという感覚を生み出した。
人やものを嫌うという態度は非常に疲れる。なぜかと言えば、愛の引力に逆らっているからだ。
それは横断歩道で流れに逆らって歩くのと同じ
また流れるプールで逆らって泳ぐようなものだ。疲れはするが一向に前に進めない。
愛の引力に身をまかせることはどれほど楽なことか。
詭弁だ、というかもしれないが、LGBTの問題さえも簡単に解決できる。
同性であろうが異性であろうが、惹かれ合っているのだ。それを止めて抗う道徳観は果たして正しいのだろうか。
よし、お前が言いたいことはわかった。だけど万有引力は質量に応じて等しく作用するだろう、こういうかもしれない。
愛に質量はある。(これは私が科学とニュートンに対してできる最大限の譲歩だ)
そして愛の質量は自分の心持ちによって増やすことができる。
他者を受け入れるという姿勢が愛の在り方だ。多くの他者を受け入れることで愛はどんどん大きくなっていく。
他者というのは必ずしも人間を指すのではない。それこそ動物であったり、果ては物であったり、全てに対して受け入れる姿勢を作ることで、相手を大切にすることができる。
日本人にはそれができるはずだ。
日本人と愛、カミ
私たちは八百万(やおよろず)の神(カミ)とともにある。(一神教の "The God"とは全く別の存在である)
自然界のあらゆるものに霊が宿ると考えるアニミズム思想が私たちの根底には流れているはずだ。
さらに日本人は付喪神を見出した。
自然界だけでなく、日常の中で大切にしているものには霊性が宿ると考える。
言うなれば、道具を使う人間の愛が具現化して現れてくるのだ。
それほどまでに古代の日本人にとって愛すること(あるいは「かなし」、心を傾けること)が具体的な存在だったか、少しは想像できるだろうか。
全てのものに霊が宿る。それは自然的なものでなくて、我々が作り出したものであっても。
この感性は形が変わっても今の我々にはその片鱗が残されている。
日本はアニメ大国だ。ものを擬人化したり、妖怪やポケモンをつくってみたり、織田信長を女にしてみたり。
最後はよくわからないけど、それぞれ日本人の霊性に対する繊細さが今となっても受け継がれているからなのではないだろうか。
これを読んでいるあなたも、日本人であってほしい。
私たちはものに囲まれて生きている。全てのものを愛することができたら、愛の質量はどれほどの大きさに成るだろうか。
ここまでくると1つ疑問がある。私たちは今、溢れかえる物を愛せるのだろうか。愛せるほどのものを持っているのだろうか。
次回は物の在り方、そして物との関わり方について触れていこうと思う。
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