『妄想力』と『レジリエンス』を高めて、自分が辛いと思っている現実を観察してみませんか、という話。
昨日は「落ちるところまで落ちる」の最低ラインを更新する、記念すべき日だった。
スマホの電源が切れようが、iPadの電源が切れようが、お構いなし。ご飯の時間もすっぽかし、ひたすら画面の前に座って、YouTube で動画を見て、Kindleで漫画を読む。
しかし、それだけでは時間を吸い取られた感じがするので、無理やり自分を納得させる様な思考をする。例えばこんな感じ。
と。
と考えることで、これを考える「為に」私はYouTubeを見ていたのだ、と納得させようとする。
この考えをしていると、他者が作るエンタメというのは歪んだ現実を見せつけてくる「わるいやつ」になってしまうが、そうでは無い。
『グエッヘッへ、歪んだ現実でどっちが現実か分からなくしてやるぜ』というつもりでエンタメを提供している「わるいやつ」もいるが、『自分の楽しさを共有したい』という「いいやつ」もいるのだ。
それを一律に切ってしまうのは、「なんとなく」良くないと感じる。
恐らく画面に向かうことによって、回避できた物があるのだろう。それは何か。
実際の人間に向き合うことを避けてきたのだ。
「現実を振り返る」ことをしない限り、画面の中を見ているだけでは、傷つかない。
「現実を見て傷つく」のが嫌だなと思った時、取る行動は大きく2つ。
それを見るか、見ないか。
見る場合、最近のトレンドである「レジリエンス」が必要になるだろう。
レジリエンスとは、困難に耐える心の弾力性を表現した言葉である。
歪んだ現実にはない困難が有るのが「現実」だ。正確には、歪んだ現実ではただの困難が有ることは稀である。何かしらの方向に向かって進んでいる困難しかない。ハッピーエンドか、とことんバッドエンドか。
実際にはそうならない。困難だなと思っている時にはその困難がどこに向かっているのかさっぱりわからないものだ。だからこそ、初対面の人と上手く意思疎通が取れない、テストで点数が取れない、予定していた電車に乗れない、、という現実に対して、耐える力が必要なのである。
「耐える」という言葉を用いるということは、それが自分の妄想していた世界とは違う方向に進んだ、ということだ。その時には「妄想を修正して、再度妄想し直す」ことが必要になる。
現実を見て傷つくのが嫌で、現実を「見ない」場合どうなるか。
江川の言葉を借りると、「現実を認めて古い妄想を捨て」ることが出来ず、妄想を守るような妄想を塗り重ねることになる。江川は次の様に続ける。
では、現実を見て、古い妄想を捨て、新しい妄想を創り出すためには何が必要なのだろうか。
レジリエンスである。
「やりたいことその1」があった時。
「やりたいこと2」をやらない理由は何か?どんな現実を見たくないのか?と考えてみる。その「見たくない現実」を発見したならば、一度「やりたいこと2」をやってみる、というのも1つの手だ。
年末が終われば正月気分になり、仕事、学校が始まればまた社会の時間に流される生活が始まる。
ここらで1つ、やりたいことをやってみるのもよいかな、というお話でした。
では。
では。
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