なぜラヂオは廃れないのか?
世の中には、たくさんのメディアがある。
テレビ、雑誌、YouTube、SNSなどなど。
その中でひときわ異彩を放っているのが、ラジオである。
このご時世に音声のみ、しかradikoや録音なしで聴くなら、リアルタイムで聴くしかない。
なんでもYouTubeで好きな時間に見れるこの時代に、この不便さはどうだ。
他のメディアと比べて圧倒的に不利といってもいいような媒体なのに、未だになくなっていない。
それどころかradikoのユーザーは(コロナ自粛も相まって)増えているというのだ。
その理由を自分なりに考えてみたところ、3つの事実に気がついた。
余計な機能のないシンプルな媒体
意味のないトークだからこそ感じられる親近感
比較的ルーズで、おおらかなメディア
これらを一つ一つ紹介していきたいと思います。
余計な機能のないシンプルな媒体
ラジオを聴いていて最初に気づいたのは、ラジオのトークは基本的にどうでもいいものが多かった。
ただの世間話や雑談と言った類である。
最近のYouTubeは特にそうだが、何か役に立つ動画が多くなってきた。
レビュー動画なども含め、教科書的な使われ方を担ってきたような気がする。
しかしラジオは違った。何か勉強になるわけでも、タメになるわけでもない。
ただひたすら喋りが続く。私にはそれが新鮮だった。
最近のメディアは意味を求めすぎて、やっても意味がないことが排除されてきたような気がする。
ムダを省くのはいいことだが、なんだかギスギスした余裕のない世界になってきたように思える。
そんな世の中に、特に意味の無いトークを繰り広げるラジオは、一種のオアシス的な存在になっているのではないか、私にはそう感じた。
音声のみという極めてシンプルな媒体なので、SNS最大の問題点である、常に気になってチェックせずにはいられないという状態にもならない。
そばに誰かがいるような安心感
特に夜寝る時にラジオを流していると、そばに誰かがいるような気がして少し安心する。
起承転結がはっきりしていて、山場のあるYouTubeの動画などを流していると、気になって眠れなくなる。
ゴールも決めてないようなトークを流し続けるラジオは、普通の会話に近いような親近感があるのだ。
そしてお便りメール。ラジオにとっては、これがシェア機能にあたるのだろう。
リスナーからのメールをリアルタイムで読み上げるので、まるで自分もラジオに参加している気分になれる。
SNSのシェア機能の元祖は、ラジオのお便りではないのかとさえ思えてきた。
比較的ルーズで、おおらかなメディア
テレビやSNSと違い、聞いている人が少ないし、放送も深夜が多いからか、比較的過激な発言も許容されているように思う。
放送禁止用語やどぎつい下ネタなどもバンバン飛び出してくるから、聞いていて痛快なのだ。
有吉弘行や爆笑問題などは、テレビよりも更に過激だし、ファーストサマーウイカもラジオでは下ネタを連発している。
テレビよりもラジオに出ている方が、本人の素が出やすいので、好きな芸能人がラジオをやっているならぜひ聴いてみるべきだと思う。(ドン引きする可能性もあるが)
まとめ
なぜこれほど機能の少ないメディアが未だに廃れていないのか、実際に聞いてみることでその理由がわかった。
余計な機能のないシンプルな媒体
意味のないトークだからこそ感じられる親近感
比較的ルーズで、おおらかなメディア
私が気付いただけでもこれくらいあるが、きっと他にもたくさんあるのであろう。
メディアの中でも最古参のラジオ。令和の時代になっても未だ愛され続けている。
むしろ人々の間に距離ができ始めた今こそ、ラジオは必要とされているのかもしれない。
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