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デザイン会社に恋してた

IDEOやTakramが好きだ。

いわゆる、デザイン・コンサルタント会社、デザイン・イノベーション・ファーム。顧客の課題を0から解決する手法をとる会社。

既存のビジネスの多くが既存の価値館や枠組みの中でものごとを組み立てていくことに対して、これらの会社はまずは既存の枠組みを取り払い「顧客やユーザに価値を届けるためには何が最適なアプローチか?」を真剣に議論し、手を動かす(と僕は認識している)。

これらの会社を知ったのはいつだろう?

大学を卒業した後だった気がする。学生のときはアップル製品が好きだったけれど、思えば理想のプロダクトのためにこだわりまくる姿勢が好きだったと思う。1ユーザがそれを感じられるプロダクトだった。

縁あって、プロの方からデザインにかかわる本を数冊借りてグラフィックデザインを独学したことがある。短い期間のことだから実用に耐えるレベルまでは身についていないけれど、その後の僕の人生観にはとても大きな影響を与えている。すでにブームが過ぎ去ったデザイン思考もこの頃覚えた。

グラフィックデザインや建築、広告、意匠、そのものができるまでのアプローチを知るのも好き。ヨーロッパ巡ったときは美術館や博物館にもたくさん行った。ヨーロッパは街そのものがデザインを伝えていて、歩くだけでたのしい。

もし人生をやり直すなら、きっとアートやデザインにかかわる進路を選ぶ。大学を失業して音楽や美術関連の人と知り合う度に「自分はこちら側の人間だったのだろう」という想いを強くする。

しかし、現在の僕はそういった仕事には就いていない。そういった技術はちょっぴり応用しているものの、そういった仕事をしていないし、今後もそうなる見込みもない。

そんな後悔からだろうか?

12月はデザイン系のイベントにたくさん顔を出した。

どれもおもしろかったけれど、特におもしろかったのは3番目のTakram。
僕はやっぱりデザインでイノベーションを起こしたいのかなと感じた。

しかし、憧れることとそれが実際にできるかはまた別の話だ。

実際のところ、僕にはなにひとつ実績がないし、教育も受けていない。完成されたプロダクトや美しいストーリーに魅せられているだけ。その裏側にある苦労や努力をわかっていない。

…そんな言い訳をつらつらと考えながら、何もしない自分を正当化している...のかもしれない。自分はほんとうにデザインが好きなのかな。好きなだけでやりたくないのかな。デザインとどんな関係を築いていきたいのだろうか。。。

僕は今、デザインしているのだろうか?

ふとそんな疑問が湧く

何かを解決したい、社会が生きやすいものになってほしい。そんな想いはあるものの、翻ってみると、そうした想いをデザインで満たしているだろうか…?

仕事ではそうしているかもしれない。ウェブサイトを直したり、動線を設計したり、チラシを作ったり。

ところが私生活ではSetDancePalを2年前に作ったくらい。プロダクトは作っていない。

広義に捉えれば、プロダクト以前の問題、つまり、ニーズの把握やつくるべきものの構想を練ったりしている。しかし、デザインをしているとは言えない。

そう考えてみると、デザインで何かを作りたいというよりも、人の役に立つもの、本当に必要とされるもの、世の中を善くしていく生き方をしたい。そういった願いがあるのかもしれない。

そんな想いに気づいてからもう一度デザイン会社について考えてみた。

デザイン会社は好きだ。それは変わらない。

しかし、もしTakramやIDEOがデザイン会社じゃなかったとしても好きだろうか?イエスだ。僕は彼らの文化、仕事(というよりも使命や趣味かもしれない)に向き合う姿勢が好きなのだ(もちろん、彼らの文化はデザインをしているからこそ育まれたものだろうが)。

そんな発想に至ると、今までは漠然とあったデザイン会社に対する憧れの欠片が少し剥がれたような、そんな気分になった。

「既存の枠組みを取っ払う」
「0ベースで考える」

そんな文化に対する憧れはまだまだある。しかし、僕は今いる場所で同じアプローチをとってきたし、少しずつだけれど試みのいくつかは実にもなってきた。どこにいても同じことはできる。ひょっとしたら別の場所へ行けばもっとうまくいくのかもしれない。でも、こうした志を持つ人がいろいろなところで、増えていけば、世界はもっと平和になる。そんな気がする。

社会をよくしていると感じられる働き方を、望めば目指せる。考える時間と余裕と相談する相手がいる。そんな社会になればいいな。つくっていきたいなと、願っている。

サムネは昔つくった名刺でした。

Grazie per leggere. Ci vediamo. 読んでくれてありがとう。また会おう!