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産声をあげる日-ある文芸評論家から作品の感想をいただいた話と、恩師の話

先日、ある文芸評論家と文通する機会があった。
自身の作品を読んでもらい、感想をいただくことを前提とした文通である。

ことの発端は、1本の電話からだった。

先週土曜日の朝、電話が鳴った。電話帳未登録の番号であった。
その日は仕事で、ちょうど出勤準備に追われていたこともあり、応えることができなかったがしかし、ひっきりなしにスマホは揺れつづけるのだった。
仕事の休憩時間に入るまで、2時間おきに不在着信があった。

折り返すと、それは高校時代の恩師であった。
当時僕は弓道部に所属していて、先生はその顧問であった。
同時に現代文の先生でもあり、日本文学に精通し、
そして当時から作家を志していた僕に対し、
太宰に川端、谷崎、三島や福永、
あらゆる作家を読めと口うるさく言う男であった。
……いや、読め、とは言ってなかったかもしれない。
そんなものも読まないくせに、作家になりたいと口にするか、
といったニュアンスだったような気がする。

「何日も部屋にこもって、食うのも忘れてひたすら読書にふけったこともないのか」

……そんなことを、高校生だった僕に説教してくれた。
だから僕は高校を卒業した春休み、赤本で出会った魅力的な小説を手当たり次第に買って、大量の水と共に物置部屋に閉じこもり、そこで餓死する計画であった。

しかし幸か不幸か、計画の数日前に東日本大震災が発生した。
計画は白紙となり、僕は「命をとりとめた」のであった。

こうして生きながらえた僕が先生と会うのは、
同期の結婚式を除き、2年前の冬ぶりであった。
母校の取材がてら先生と会い、語らった。
先生はこの年度で退職する話を聞いた。
本当にぎりぎり、先生が先生でいるあいだに話をすることができた。

その際、僕が書いた作品のうち、本という媒体になった作品のほとんどを渡したと思う。
かなりの重さになった。
先生は驚いていたし、なかでも『イリエの情景』を気に入ってくれた。

「お前、作家になって食ってくんなら、Iと連絡を取れ。俺の名前を使って構わん」
Iは東北在住の文芸評論家であった。
先生が学生時代、友人であったのだという。
「本気で食ってく気なら、彼に師事しなさい」

僕はその話を、頭の片隅に留めておくだけであった。
当時の僕は、誰かに師事するより、書きたい欲が勝っていた。
それに、Iはいわゆる純文学的な方向性の評論家であり、尻込みしたのもある。
純文学なんて、ほとんど読んだことがなかったからだ。
否、僕は相変わらず小説を読まないのだ。

そして現在に至るまで、Iとコンタクトをとることもしなかったし、先生と1対1で話すこともなかった。
それどころか、先生に送るためにわざわざフォントを大きくさせた新作『海の見える図書室』すら、先生に届けずじまいという。
住所を教えてもらったにもかかわらず、だ。
「母校の取材」を元に書いた作品であるにもかかわらず、だ。

スマホ越しに先生の声が聞こえる。
「このあいだな、Iと話す機会があってな、お前のことを話したんだ」

先生は以前、Iと何年も、あるいは何十年も会ってないと話していた。
Iは多忙な日々を送っており、一方先生は一度倒れて入院して以降、行動範囲が狭くなった旨を語っていた。
加えてかたや東北、かたや神奈川である。
このふたりに「話す機会」があることに不思議を抱きつつ、先生の語りは続く。

「それで、100枚までだったら読んでくれるそうだ」
その一言に、え、と声が出たと思う。
事態を呑みこめなかった。
100枚、というのが原稿用紙100枚であることに、少し時間を要した。
そのことにもの書きとして少し傷つき、同時に現状を把握した瞬間でもあった。
僕はいつの間にか、原稿用紙換算、という言葉とは縁遠い人間になっていたのだ。

実のところ、先生が電話をしてきたのは、弓道部時代の同期の結婚式を、事実上無断で欠席したことを咎めるものだと思っていたのだ。
少し考えればそんな馬鹿げたことで電話してくるはずもないのだが、
僕はそれだけ、うしろめたさを抱いていたのだ。
(そう書くと、同期一同から呆れられるだろうが、ともかく)

「100枚以内で、冒頭に300字程度のあらすじを付けたデータを添付して送りなさい。そのとき、必ず俺の教え子であることを明記し、誰であるか分かるようにしておくこと。それから……」

先生は要項をつらつら述べる一方、僕はただメモを走らせるので精一杯だった。
理解が追いつかなかった。
最新作『海の見える図書室 真夏の章』を発表してから、僕は創作らしい創作をしていなかった。
正確に言えば、発表する以前も、創作らしいものはほとんどできずにいたのだ。

もちろん書いてはいるのだが、それは砂場に放りだされた男が、ここが居所であることを肯定するためだけに、砂に指を這わせて模様をつくるようなものであった。
そんな人間のものなど、誰が読んでくれようか。

僕はしかし、これはチャンスだとも思った。
現状に閉塞感があるということを一応は自覚しており、これを打開するキッカケになりうるのだろう、と。

ただ送るだけなのだ。
書く必要はない。
既存の作品で、100枚以内のものを、送ればいい。
さいわいなことに、長篇も短篇も、質を問わなければそれなりに書いてきた。
自らの貯蓄を切り崩すなど、造作もない。

Iとはその界隈では名の知られた評論家ではあるが、ものを読まない男からすれば、(実に失礼であるとは思いつつも)とにかくただ送るだけで自分の作品を読んでくれ、さらに貴重な感想をいただける存在でしかなかった。
億劫ささえどうにかすれば、これほどありがたいことはない。

そう決めたら、先生の声はほとんど耳に入らなくなってしまった。
先生の声に耳を傾けつつ、相槌しながら、
なんの原稿を送るか、どんなふうに自己紹介のメールを送るかを考えていた。
休憩時間が終わり、業務の後半戦も、ほとんどずっとそのことを考えていたと思う。

まず原稿である。
代表作の『イリエの情景』や最新作の『海の見える図書室』は、枚数的に超過であったからいけない。

間もなく浮かんだのは「半球のスター・ダスト」であった。
家系ラーメンのもやしが主人公で、彼が生まれてから食べられるまでを描いた物語である。
特にラストシーンが好評で、僕自身短篇のなかで一番自信のある作品だ。
しかし「イロモノ」に思われるような気がしたので、やめた。
僕は大真面目にこれを書いたわけだが、初めての作品となるとあらぬ誤解を与えかねない。
最悪、あらすじの段階でふざけてるのかと思われ、読んでくれない気がした。

次に浮かんだのは「影法師を踏む」である。
ホームセンターでバイトをする大学生の「僕」が、失業中の兄やバイト先のパート、社員、サークル仲間と接しながら、漠然とした将来に対する「不安」を描いた作品といえる。
これも好評であり、意図して私小説的に書いたものであった。
しかし既定枚数よりやや多く、さらに読み返すと粗が目立った。
粗が目立つということは、それは僕にとって「過去」の作品であることを意味している。
「影法師」の評をもらったところで、他人事のように思うだけでおわりだ。

そのあとで浮かんだのが「あすか、初夏の日」であった。
カラスを拾った少女明日佳は、その世話を幼馴染みの少年一矢に託す。
それによってふたりの行く末は大きく分かたれる。
明日佳は人気者に、一矢は疎まれ者に。その罪の告白を、明日佳は一矢に対して試みようとするのだが……といった話である。
青春を切り取った一篇で、なおかつ情景の美しさとカラスの魅力が籠もった作品で、僕はかなり気に入っていた。
大学時代の同志から「これは商業でもいけると思う」と太鼓判を押してくれた。
これなら胸を張って送れるし、どんな反応が返ってきても受け止められる。

Iに挨拶のメールをした。
先生を経由して、作品を送る前に「好きな作家」と「自分の志す文学像」を教えてほしいと聞いていたので、その返答をした。

先述の通り、僕は本を読まない。
変に読んでるアピールをしたところで、相手はプロフェッショナルである。
アマチュアがどう吠えようがボロが出るのは目に見えているので、僕は正直に答えた。
本を読まないながらも、ドストエフスキーの『罪と罰』はとても衝撃的で、とても好きな作品である旨を伝えた。
実際、この作品は僕にしては珍しく何度も繰り返し読んでいる。

するとIは、僕に対する初めてのメールの冒頭で
「ドストエフスキーが好きなら、中村文則を読まないといけませんね」
と話してくれた。
時候の挨拶などなく、宛名の次に、この一文であった。
それを見た途端のことだった。

メールを送った相手が、とにかくただ送るだけで自分の作品を読んでくれ、さらに貴重な感想をいただける存在ではなく、文芸評論家を生業とし、これを武器とし生きる人間であると、深い敬意を抱いた。
同時に、そんな相手とメールを交わせるこのひとときに、心の底からよろこびが湧き出てきたのを覚えている。

中村文則のなかでも特に薦められた『悪意の手記』を、昨晩夜更かしして読んだが、思った以上にご馳走であった。
会話の断片から相手の好みの文学をお披露目する。
それはパイプだけを見て、その持ち主が筋骨たくましく左利きで経済的に苦労のない男だと見破るシャーロック・ホームズの推理を間近で見たような、そんな心地であった。

正直言って、初のメールはひどく緊張していた。
そう、「ただ送るだけ」と考えておきながら、とてつもなくかしこまっていた。
3000字を軽く超した。
(ちょうどこの記事のここまでくらいの文章量であった)

そのくせ年齢や職業、どこに住んでいるのか、先生との関係などなど、そういった最初に伝えるべき事柄は一切書いていなかったのだ。
ただ、いい意味で着飾る必要はなくなり、以降、第一ボタンを外した程度の文章になったと思う。

その後もメールをやりとりし、ついに僕は原稿を送った。


数日後、返事が来た。
A4用紙5枚分の感想とともに。


衝撃的なことだった。
僕の作品を読み、そして感想が送られてくる。
そのことに、まずはただただ驚いた。

そして、弱い部分を的確に突いていた。
「弱い部分」がどこか、その点に関しても、驚きを隠せなかった。

一つ目は「人物」であった。それは僕も自覚していた。
が、二つ目は「情景描写」だった。
情景描写は、得意だと思っていた部分である。
加えて一層自信のあった「あすか、初夏の日」で突き崩された。

すなわち、僕の考えていた情景とは、「説明」のことであったのだ。

……ものを書く人間で、それなりに創作法をかじった人間であれば、「ものごとは説明するのではなく描写しろ」という説法は耳タコであろう。
当然僕も知っている。
そうならないよう配慮し、工夫してきたつもりだ。

しかし根本のところで、僕は欠いていた。
情景描写とはなんぞや。
その手本となる文章を、知らなかったのだ。

Iは決して「君、本読んでないでしょ」とは言わなかった。
ただ粛々と、もの書きがものと向き合う姿勢を、あらゆる角度から、あらゆる具体例とともに示してくれた。
そして最後に「何度も読んでください」と、数冊の作品を挙げた。
本を読まない僕にとって、当然のことながらほとんどすべてが初めて目にする作家、初めて目にする表題であった。

感想は何度も読み返した。Iの言葉を、真意を、行間を、洩れなく喰らい尽くそうと考えた。
喰ううちに、僕は自らに上限を課していることに気が付いた。

この「上限」を、うまく言語化させるのは難しい。
ものを書くには、土台というものがある。それは広く深くあればあるほどいいのだが、当然時間も労力もかかる。であるならば、その上に建つものが倒壊しないギリギリの大きさの土台さえあればいい。
その大きさの限界値すれすれのものだけこねくり回し、あとは無理やり小手先の力でそれっぽいものに仕上げていく。
いつの間にか、そんなふうに考えていた。
考えていた、と断言口調で書いているが、当の本人は緻密に綿密に練っていると断ずるであろう。

すなわち、僕は小説をなめくさっていた。

いつからそうなっていたのかは分からない。
が、そんなことにかまけてる時間はない、ともいえる。
ある時点の僕を指名手配したところで、結局それは僕でしかない。

今だからこそよかった。
本当によかったのだ。

10年前ならばIの言葉に憤ったろうし、1年前だったら立ち直れなかったろう。
現状に停滞感を抱きながらも、路頭に迷っていた今だからこそ、僕は他人の言葉を素直に受け止めることができた。

するとあの日、先生から来た1本の電話は、偶然と呼ぶにはあまりにもできすぎている。
偶然とか奇跡とか呼んで、それでこのnoteを終わらせてしまってもよさそうなものだが、しかし、それではこの僕が納得しない。

先生はずっと僕のことを、見てくれていたのかもしれない。
同期の結婚式をサボり、ちっとも連絡をよこそうとしない、この卑劣で怠惰な僕のことを。


いつの日だったか、先生は僕に教えてくれた。
先生は元々、作家になりたかったのだと。
学生時代に同人誌をつくったこともあったと言う。
当然、その「同人誌」とは現代的な文脈からさかのぼるより
「我楽多文庫」から辿ったほうがしっくりこよう。

先生の義理の弟だったか、実の弟だったかは、音楽系のライターとして飯を食っているらしい。
生活は決して豊かとはいえないが、しかしたった一本、決して兼業することなく、生計を立てている。
「決して兼業することなく」という部分を、先生はことさら強調して語っていた。

そして先生の友人には、文芸評論家のIがいる。
先週は僕の作品を読む程度の空きはあったようだが、おそらくしばらくは連絡すらできないほどに多忙であるという。

その一方で、先生は作家という道を進まず、安定した公務員の道を選んだ。
自嘲気味に、先生は語ってくれる。何度も、何度も。

だからもしかしたら、先生は「先生」と呼ばれるたびに、コンプレックスを募らせていたのかもしれない。
作家も教諭も、奇しくも同じ敬称であるわけで。

僕は託されたのだろうか。
分からない。
単なる僕の妄想なのかもしれない。
ただ世の中には、分からない、ということにしておいたほうがいいこともある、のだ。

そう、こういう話は、noteに垂れ流すものではない。
さいわいなことに、僕にはこの感触を丁寧に語り継げる武器を持っている。

書くのだ。
Iのためでも、先生のためでもない。

先日、Iから薦められた書籍を集めた。
そのなかにホラーも含まれる。
僕はホラーが苦手で、敬遠してきた。
だが、それはもう過去の話である。

僕は30になった。
30になるというのは、僕にとってひとつのゴールラインだった。
「30になるまでに結果を出せ」
そう家族から言われたからというのもある。
すると、小説から学ぶ時間も惜しいと考えていた。
今手元にある術だけを駆使して、まずはものを完成させなくてはならない、と。

しかし僕は30になった。
結果は、出なかった。

だが、それがなんなのだ。
家族がなんと言おうが、どうだっていい。
30だろうが、構いやしない。
結果が出ないのは、僕が思い描く物語を書く術を持ち合わせていないからに過ぎない。
それならば、今から学べばいい。
学んで、世界を観察し、その色めきを言葉にする。
産声をあげるのだ。

昨日、僕は本を読みながら寝落ちした。
そのとき、花火が飛び散るように、まぶたの裏で光が弾けた。
弾けた閃光の内側に、10年後の僕がいた。
40の僕は、髪は薄くなり、腹が出っ張っていた。
しかし彼は、それをコンプレックスにすら感じず、背中を丸くしながら画面に向き、キーボードを叩いていた。

寸刻にも満たない短い時間ではあったが、その姿に、僕はひどく安堵した。
その僕は、とうに産声をあげていた。
それだけ視えれば、あとはどうだっていい。
僕はこれから、その姿につづく道を辿るのだ。

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