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証とはそういうものだ

初めてのぞみに乗った。
いや、もしかすると幼い頃に父に連れられて乗ったことがあるかもしれないけれど。というか、電車好きな父のことだから、乗せないわけがない。
だからこう訂正すべきだろう。

初めてひとりでのぞみに乗った。
名古屋駅で乗り換えだった。
しばしホームで待っていると、東京方面の線路の先から新幹線の白いビームがまぶしく見えた。僕は思いがけず心が浮き立った。大して期待もしてなかったのに、のぞみという響きを冷笑的に捉えていたはずなのに、この電車に乗るのを楽しみにしていたらしい。

ぼんやり車窓を眺めているうちに米原駅を通過していた。
正直言うと精神的疲労がかなり溜まっている。5月の新刊に向けての準備もあるし、ホームセンター業務もここ最近いつにも増して過酷であった。心を無にして働くことはあまりないのだけど、ここしばらくはある程度「無」の境地を意識しなければやっていけない程度には、忙しい。
唯一、こうした状態でも画面を開けば執筆できることは救いであるし、これで書けない状況だったら、なにかしらの患いを抱えることになっていたかもしれない。

久しぶりに作品を世に出すことになった。
およそ1年半ぶりの新刊、というものだ。
タイトルは『だから僕は他人の為に書くのをやめた。』、先月noteに掲載したエッセイのタイトルそのままだ。もちろん、新刊に収録されている。
すでに察する方もいらっしゃるだろうが、この新刊はエッセイ集である。少なくとも、そういう体で告知はしている。

けれども自分自身この作品を「エッセイ」と呼び称するたび、違和感で胸中おだやかでなくなる。もちろんエッセイ集であることをは疑いようがない。たった2行で終わるものも収録されているし、2本程度短篇小説が混じっているとはいえ、残りの20本はエッセイであることに違いはない。

それでも個人的に「エッセイ」というくくりではないのだろうなという心地になる。
というのも、この作品には他人に向けて書いたものではないものがいくつか混じっているからなのだと思う。なかには自傷のためだけに綴られた文章も含まれている。すなわち書くことに意味はあるけれど、読むことになんの意味もないものが混入されている。
こんなものはエッセイではない。
加えて、小説なるものを書こうとして文字を打ち込むはいいものの、連なる文章がまるで自分のものではないように思えて、吐き気を催し、途中で放棄したものもある。
こんなものはエッセイではない。

では一体この新刊、
『だから僕は他人の為に書くのをやめた。』とはなんなのか。着想から刊行に至るまでの約1ヶ月間、じっと考えつつも思い当たる言葉が見当たらなかった。

エッセイでも小説でもない。
日記? その日のことを書く習慣はないし、続けても2日で止まる。
自伝? 人にものを伝えられるほどの人間には程遠い。
私小説? 物語になるほど体裁は整っていない。

そうではなかった。
ただの証だ。
書けない自分から目を背けていた自分が、書けない事実に直面し、書けないことに悶え苦しみ、かといって書かないという選択を採るには臆病で、書けないまま歳を取り、しかしなお書かねばならない焦燥感に追われ、書き、破り、嘆き、書く意味を問い、書きつづける意味を問い、書けないのに書き続けようとする自らを呪い、書き、挫け、苦しみ、向き合い、思い、考え、諦め、書くこととの遠近を知り、語らい、巡らし、思索し、辿り、そして書きつづける僕自身の証にすぎない。

そうしてようやく、本当にようやく、僕は僕自身を見つめるための術を見つけた。
こんなことをいうと呆れられるかもしれないが、僕は僕という人間がいかなる者なのかを理解できずにいた。同時に僕の残した作品の魅力も、弱みも、なにも知らなかった。知る術を持たなかったのだ。同時に知ることにおそれを抱きもした。知ることで、僕の知り得ぬ「強み」を失うのではないか……。

でも、そんなことはどうだってよかった。
書けない人間は死んだも同然なのだ。
強みだろうが思想だろうが、死んだ者はなにを叫ぼうが誰にも届かない。たいそうなプライドを持っていようが壮大な英雄譚を抱いていようが、口から出てくるものはすべてが絵空事にすぎない。たとえ当人が真実だと思っていて一度でも世に出せばベストセラーになることが確定してようが、そう信じているのは世界中で当人ただひとりにすぎない。
ただ、おだやかな笑みを浮かべられるだけで、妄言を真摯に受け止めてくれる人などいないのだ。
それはまごうことなき事実で、そして宿命であった。

それを知った今、僕は書いている。
語弊を恐れず言うならば、僕は死人であることを自覚し、死人としてものを書いている。もう僕がなにを言っても人はおだやかなままだろう。期待めいたものを言われることもあるだろうが、そんなものは業務上の建前にすぎないと理解することができる。
死人は死人らしく、物言わず書くほかないのだ。



京都駅に着いた。
海外からの観光客が一組と、壮年の男性がひとり。ほとんど満席だった席が空き、余裕が生まれた。
隣の、おそらく受験生と思しき人も、この京都で降りた。まだまだ先は長い。

物言わず書く、などと言ったそばから、車窓を眺めるばかりでキーボードは止まったままだ。
山の稜線を眺めるだけで心が穏やかになる気がする。関西はこころなしか色っぽい稜線を持つ山が多くて困る。遠くから眺めるだけで手を出せないところが、僕らしい。
新大阪で恐ろしいほど乗客が減った。なんと前一列の5席は空席だ。西へゆくのだと実感する。もっともこの新幹線が広島行でなく福岡行だったらまた違うのかもしれないけれど。

『だから僕は他人の為に書くのをやめた。』は、明日の文学フリマ広島でお披露目となる。
今回は宅配搬入のため、まだ僕も実物を見ていない。果たして会場に無事届いているのか、内心びくびくしながらも、うきうきである。
当然のことながら、この新刊を出したところで僕が死人であることに変わりはない。二篇の小説が収められているが、もうずっと前に書いたものであるし、書くことに苦しさを抱いていたころのものだ。
それに死人が発言を許される場は、物語のなかでのみなのだろう。こんな場所でよしなしごとをぼやいたって、得られるものなどないのかもしれない。

そもそも挫折なんてものは誰もが経験しているものだと思う。僕の挫折が特別なものでも、ことさら深刻なものでもないだろうと思う。
当然主観的に言えば、あれほどの地獄はできることなら二度と味わいたくはないと思うわけし、実はまだ知らないだけで地獄の真っ只中にいるかもしれないわけだが、他人が僕の地獄を読んだところで「俺の挫折のほうがずっと地獄だ」と感じるのは明らかだ。
それでもやはり、僕はこれを証として残したいと願った。

それはひとえに、いつかの僕に届けたいと思ったからだ。
いつかというのは、過去の自分か未来の自分かは分からない。いや、おそらくそのどちらもだろう。
中学時代の自分にも、絶望の底に伏した頃の自分にも、来年の自分にも、加齢臭をほとばしり完全に髪が抜け落ちたあとの自分にも、そしてもちろん、今の自分にも。
各々の自分がどんなことを考えているかなんて知らないし、この作品を読んだところでなにを感じるのかも知らない。けれども、この作品のなかに収められた日々を、きっと特別に感じてくれるだろう。僕にとって証とは、そういった類のものだ。

正直、こんな文章を書きながら、新刊の魅力を伝えられているのかは分からない。
たぶんクドいと思われているような気もする。
とはいえ、僕にとって今までで一番の出来だと思える「エッセイ」集になったと胸を張って言える。

姫路を過ぎ、間もなく岡山へ至る。
前を走るひかり号がたった2分遅れるだけで、後続ののぞみ号は減速や停車を余儀なくされる。なんて過密なダイヤなのだろうと感心しつつ、ゆっくり走る列車の窓から見える山の様相にまた変化が訪れ、白い岩肌がちらと見える、丸みのあるものが目立つようになった。
斜面に生える木や下草もこころなしか地元と異なるようで、思えば遠くへ来たものだと感嘆する。山間の狭い平地に民家や田園のある風景は、できることなら立ち止まってじっくり空気を味わいたいものだが、新幹線は2分遅れのまま、スピードをあげていく。
川と山にはさまれた街道沿いに、なぜか赤レンガ造りの四角い煙突のある民家が幾軒もあったが、この場所がどこかも分からぬまま、列車は駆ける。

いつか知ることはできるだろうか、訪れることは?

……しかし、大切なのはそこではないことを僕はもう知っている。
過ぎ去りゆくる風景、知り得なかったという事実。
記さねば忘却するであろう思い出。
傍から見れば、些細で、つまらなくて、どうでもいいと思えるものたち。
そんな些末なものを拾い上げて、僕はタンスのなかにこっそりしまっておく。いつかの僕に、伝わるように。

証とはそういうものだ。


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