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「報い」のために生きない

はじめに

若葉して 御目の雫 ぬぐはばや
                 芭蕉笈の小文                            

プラトン『ソクラテスの弁明』

プラトン作(/田中美知太郎訳)『ソクラテスの弁明』では、ソクラテスがギリシャ神話の英雄アキレウスについて、次のように語る。

なぜなら、君のそういう議論からすれば、あのトロイアで生涯を閉じた半神たちはくだらない連中だったということになるだろうからね。なかでも、あのテティスの息子(アキレウス)などは、恥ずべきことを我慢するくらいならそんな危険はなんでもない、と考えたのだからね。だから、ヘクトル討ち取りの念に燃えている彼に対して、女神であったその母親が、わが子よ、おまえが親友パトロクロスの仇を討ってヘクトルを殺すようなことがあれば、自分も死ぬことになるのだよ、ヘクトルのあとですぐ死神がおまえを捉えようと待ちうけているのだからねと、なんでも、このようなことを言ったと私は思うのですが、するとアキレウスは、この言葉を聞いても、死や危険はものの数に入れず、むしろ友のために仇討ちもしないで卑怯者として生きることを恐れて、あの悪者に罰を加えさえしたらすぐに死んでもかまいません、わたしはこの世にとどまって、地上の荷厄介になりながら、へさきのまがった船のかたわらで笑いものになっていたくはありません、と答えたのです。

プラトン作(/田中美知太郎訳)『ソクラテスの弁明』

アキレウスに関しては以上であるが、続く部分も引用する。

なぜなら、アテナイ人諸君よ、真実はつぎのとおりだからです。人は、どこかの場所に、そこを最善と信じて自己を配置したり、長上の者によってそこに配置されたりしたばあい、そこに踏みとどまって危険をおかさなければならない、とわたしは思うのでして、死も、他のいかなることも、勘定には入りません。それよりはむしろ、まず恥を知らなければならないのです。

『ソクラテスの弁明』(太字は引用者による)

ソクラテス、裁判の判決に従い、刑死。

中島敦『李陵』『弟子』

李陵の「やむを得ない」とは異なる生き方を貫いた蘇武、「見よ!君子は、冠を、正しゅうして、死ぬものだぞ!」と絶叫し斃れた子路。

旧約聖書『ヨブ記』

山本七平氏の『聖書の常識』によると、箴言しんげんとそれを守るか守らないかで決まるという応報思想に対して、ヨブ記は創作されたものであるという。
内容としては(前述の著作より)、箴言を忠実に守り幸福に生きていた「ヨブ」の周りに、理由なく不幸が見舞い、その理由は箴言を守ると見せながら実は守っていないからだという友人との議論、その後神との議論により、神は応報のために存在するものではないし、さらに神から見てヨブは「被造物」であるのだから、そのことを自覚しないことがヨブの罪である、としてそれを知り懺悔するヨブが神と和解する、というものである。

中村元訳『ブッダのことば スッタニパータ』

生れを問うことなかれ。行いを問え。火は実にあらゆる薪から生ずる。賤しい家に生まれた人でも、聖者として道心堅固であり、恥を知って慎むならば、高貴の人となる。

中村元訳『ブッダのことば スッタニパータ』 大いなる章 二、つとめはげむこと

人の道

引用だらけで恐縮であるが、致し方ない。
人は生きざまで決まる。特に、恥を知る人の生きざまが大切だと、私は思う。

文責筆者


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