自己追求と、乖離

私はただ、誰かに受け入れられたかった。

私のこの稚拙で閉鎖的な価値観を、誰かの深い心の奥底に置いてもらいたかった。
世間一般的な価値観や正解から、私の求める感覚がますます遠のいて行く事が怖かった。
誰からも、1番身近である親族からも賛同されず、取り残される私をとても孤独に感じていた。

何度も願った。
これまで醸成してきた己の価値観全てをぶち壊して、ありふれた世俗の価値観に染まり、誰とも区別のつかない存在になって漂うように生きたいと何度も願った。

しかし、自分自身ではどうすることもできなかった。
良くも悪くも、そう簡単に変えられるものではなかった。

私を好いてくれた人とも心を開けず、物質的で表面的な付き合いに留まり、その先に到達する事はなかった。

そして自ら、自分の心を不特定多数の誰かに安売りした。
その結果、醜態を晒し、周りに嘲笑され、恥辱的な思いをした。

強欲極まりない行為だった。
結局は、外から私を見れば、そこら辺に転がっている短絡的な快楽でシャブ漬けになった、誰とも区別の付かない存在と同じであった。
自分はそんな存在と同じ場所にはいないと願いつつも、自らが、自らをその程度の価値だと無意識的に推し量ってしまっていたという事実に、深い落胆を覚えた。

相手に「ごめんなさい」と、何度も詫びを入れた。
それは、相手に対して、でもあった。
しかしそれ以上に、自らをこのような価値に仕立て上げてしまった自分の怠慢で傲慢な欲求に対しての謝罪であったのだと、後々心の奥底で理解した。

何度も心の売春を重ね、
何度も心に深い傷を付けた。

だが、今の私にはー
この恥辱的な自傷行為でしか、私の脆弱な心を埋め合わせる術はなかった。
傷を負う毎に、哀しみが深い闇の底に葬り去られていく実感があった。

心の牢獄。
慈愛とは一体どの様な感覚であったか。
意識が遠のいてゆく。

心の海。
どこまでも広がる水平線。
そんなユートピア。

追うしかないのだ。
信じ続けるしか、生きる術はない。
自分を無くす事は、死より重い。

労わる心を持ちたい。
その道のりは、遥か遠い。

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