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パイプ椅子の座面が抜け落ちる風景

パイプ椅子の座面が突然抜け落ちて、尻もちをついたおじさんを目の当たりにした。絵に描いたようなおじさんが、絵に描いたような尻もちをついた。ドスーンと尻もちをついて、ドテーっと後ろに転がった。私はその光景を風景として眺める時間があった。尻もちをついて後ろにひっくり返った背広のおじさんという風景だった。灰色の風景。鼠色の背広はアオキか青山か。ひっくり返って背中がホコリまみれになっても気にならないような、着込まれて着込まれて、パジャマのようなしわのついた鼠色の背広。

パイプ椅子に座っている人がその場にはそうだな、恐らく200人はいただろう。私もその中のひとりだった。あのパイプ椅子と、このパイプ椅子は同じ仕組みのパイプ椅子なのに、あのパイプ椅子は座面が突然抜け落ちて、このパイプ椅子は抜け落ちなかったのだ。何というのか。そうだ。宿命だ。あのおじさんのパイプ椅子の座面だけが突然抜け落ちるという宿命。私は宿命を風景として眺めていた。

座面が抜け落ちたパイプ椅子は折り畳まれ、重ねられ、少しだけ端へと追いやられていた。椅子だったはずなのにゴミになってしまったパイプ椅子。まるでそこでプロレスの場外乱闘があったのかと思うような、座るべき物として作られたパイプ椅子が一瞬にして凶器となり、プロレスラーの背中を殴ったのかと思うような、そんな見るも無残な元・パイプ椅子。そして見るも無残な鼠色のおじさん。なぜ無残なのか。そうだ。座るものがないから、しばらくの間その場に立っている時間があったのだ。起立するより他なかった鼠色の背広。200人のうち199人が座っているのに、たった1人だけ立っていた。なぜなら椅子がないからだ。

すぐさま届けられた新しいパイプ椅子に腰掛ける鼠のおじさんは、軽く座面を叩いて確認してから座っていた。数分前にパイプ椅子の座面が突然抜け落ちた人しかやらない安全確認だった。そんな数々の風景で構成された世界は決して絶景ではなかったが、しばらく眺めていてもいいなと思えるくらいの小さな世界だった。パイプ椅子の座面は抜け落ちることがある。教訓めいたものを手土産に帰路に着いた。

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