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JOG(843) 民とともに作った世界最大の大仏

 聖武天皇は民と共に大仏を作ろうと、「一枝の草、一にぎりの土」を、と呼びかけた。


■1.奈良の大仏


 奈良の大仏の建立は、我が国の仏教文化の最大の遺産と言える。東京書籍の中学歴史教科書は次のように記している。

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天平文化 奈良時代になると、朝廷は、唐の制度や文化を取り入れようと、遣唐使をたびたび中国に送ったので、都では、仏教と唐の文化の影響を強く受けた文化が栄えました。この文化は聖武天皇の天平年間に最も栄えたので、天平文化とよばれています。

 天皇と光明皇后は、仏教の力にたよって国家を守ろうと、国ごとに国分寺と国分尼寺を、都には東大寺を建て、金剛の大仏を作らせました。また、行基のように民間で布教し、民衆とともに橋や用水路をつくる僧もあらわれました。[1,p38]
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 同じ項目を自由社版はこう書いている。

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聖武天皇と大仏造立 聖武天皇は、国ごとに国分寺と国分尼寺を置き、日本のすみずみにまで仏教の心をいきわたらせることによって国家の平安をもたらそうとした。都には、全国の国分寺の中心となる総国分寺として東大寺を建て、大仏造立を命じた。

大仏開眼の儀式は、インドの高僧を招いて、はなやかに行われた。しかし、これらの事業は、莫大な資金を必要としたので、国家の財政は苦しくなった。[2,p63]
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■2.「唐にもインドにもこれ以上の規模を持つものはなかった」

 まず、この両書とも触れていない重要ポイントを述べておこう。それは渡部昇一氏が次のように指摘している点である。

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 そして東大寺大仏殿は、聖武天皇がめざしたとおり、まさに「三国一の大伽藍(だいがらん)」であり、唐にもインドにもこれ以上の規模を持つものはなかった。中心となる金堂は1336坪あり、文句なく世界最大の木造建築である。・・・

 また、そこに安置されている盧舎那仏(るしゃなぶつ)、いわゆる「奈良の大仏」に用いられた熟銅はおよそ444トン、金は約48キロで、鋳造された仏像としては世界最大のものである。・・・

 大仏殿の周囲にはそれと調和する建築物がたくさんあって、左右には七重の塔が建てられていた。東塔326尺、西塔324尺9寸、つまりいずれも約百メートルの高さであった。これも、当時としてはエジプトのピラミッド、伝説上のバベルの塔を除けば、世界最高である。[3,p155]
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 もともと我が国には、古代世界でも抜きんでた土木建築技術を持っていた。約4千年以上前の縄文時代に高さ10m、長さ32mもの巨大木造建築を建てたり[a]、5世紀前半には高さ35m、全長486mの世界最大の墳墓・仁徳天皇陵を造営した[b]。

 その技術伝統と統一国家としての経済力を発揮して建立されたのが、世界最大の木造建築である大仏殿と、同じく鋳造された大仏としては世界最大の盧舎那仏であった。

 東書版の言うように、天平文化が「仏教と唐の文化の影響を強く受けた文化」である事は確かだが、そこから唐にも仏教の本家インドにもない世界最大の大仏を作ってしまう所に、我が国の歴史の特徴がある。

 東書版は半ページものスペースを使って、広隆寺の弥勒菩薩、法隆寺の釈迦如来などが、新羅や唐のオリジナルにいかに似ているか、写真で見比べているが、これは我が国の美術が他国のコピーである、と教え込もうとしているかのようだ。

 中学生向けにはそんな古美術的詮索よりも、奈良の大仏の規模が唐やインドにもなかった点を述べるべきだ。それは定量的なデータと史実に基づいた健康的な「お国自慢」なのだから。

 ちなみに左翼史観では、大仏建立では人民を奴隷のように使役していたという見方をしていたが、最近は古文書の研究から、木工や仏師などの専門家ばかりでなく、人夫に至るまで、賃金と食米が支給されていたことが明らかになっている。

 しかも工事に従事した延べ人数は推定260万人というから、大仏の建立とは一大公共事業であったのだ。[4]

■3.「自分の志は天下の万民をもれなく救うことである」

 聖武天皇の大仏建立の目的を両教科書は次のように述べている。

 東書: 仏教の力にたよって国家を守ろう
 自由社:日本のすみずみにまで仏教の心をいきわたらせることによって国家の平安をもたらそう

 東書版の表現は抽象的であり、かつ、読み方によっては、天皇が仏教を使って自らの国家権力を守ろうとした、というようにも読める。これに比べれば、自由社版の表現の方がより具体的だ。事実はどうなのか。

 天平6(734)年から翌年にかけて、来朝した新羅使などによって持ち込まれた天然痘が全国に広がり、多数の農民が死亡した。天平12(740)年には、大宰府に左遷されていた藤原広嗣が反乱を起こして討伐された。こうした国家的混乱を治めるために、聖武天皇は「仏教の心をいきわたらせることによって国家の平安をもたらそう」としたのである。

 天皇が大仏建立の願いを詔(みことのり)として出したのは、天平15(743)年のことであった。現代語訳では次のような内容となっている。

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 自分の志は天下の万民をもれなく救うことである。それには法恩(仏の恵み)を天下にゆきわたらせなければならない。仏法の威霊によって、天地自然の恵みがいついつまでも豊かに、生きとし生けるもの、すべてが栄えてほしい。そこで天下に法恩をゆきわたらせる力を持たれる盧舎那仏の金銅像一体を奉造する。[5,p208]
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■4.「仏教に対する革命ではないか」

 盧舎那仏、あるいは毘盧遮那仏(びるしゃな)とはサンスクリット語の「ヴァイローチャナ」の音訳で「光明遍照」を意味する[6]。この絶対的・理念的な「仏」が日本において現れた姿が「天照大神(あまてらすおおみかみ)」だと考えられた。

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 だから、毘盧遮那仏を日本で祀るのは天照大神を祀るのと同じことになる。そこで、大仏造営にあたって聖武天皇は橘諸兄(たちばなのもろえ、橘三千代の子。光明皇后の腹違いの兄)を、アマテラスを祀る伊勢神宮に、わざわざ遣わして寺を建てる神許を乞うている。[3,p160]
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「天下に法恩をゆきわたらせる力を持つ盧舎那仏」とは、皇室の先祖であり、かつ太陽神として「生きとし生けるもの」を産み育て、「天地自然の恵み」をもたらしている天照大神そのものである。

 したがって「仏法の威霊」とは「天照大神の大御稜威(おおみいつ)」であり、それによって「天地自然の恵みがいついつまでも豊かに、生きとし生けるもの、すべてが栄えてほしい」と聖武天皇は祈ったのである。

 仏教という新たな装いはしていても、その内実は歴代の天皇が神々に民の安寧と国家の安泰を祈ってきた姿勢と変わらない。渡部昇一氏は、この神道的な「みんなの神様」という考え方に近い発想を「仏教に対する革命ではないか」と評している。[3,p160]

■5.「行基と大仏造立」

 聖武天皇が天皇の立場から「仏教に対する革命」を進めたのに対し、民衆の側に立って改革を進めたのが行基(ぎょうき)であった。そして天皇は大仏造立で行基の協力を求めたのである。自由社版は「行基と大仏造立」と題した次のようなコラムを設けている。

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 行基は奈良時代の僧で、早くから民間に布教し、各地で橋をかけるなどの社会事業を行い、多くの信者を得ていた。もともと仏教は、国家の統一をうながし、国家を守るものとして導入され、庶民の信仰の対象ではなかった。そこで、朝廷は行基の布教を抑えた。

しかし、聖武天皇は大仏造立のために「一枝の草、一にぎりの土」をもって手伝おうとする者があれば許すようにと命じ、行基の協力を求めた。行基の活動は、仏教が庶民の間に広がるさきがけとなった。[2,p63]
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 冒頭で紹介した東書版の記述では、「行基のように民間で布教し、民衆とともに橋や用水路をつくる僧もあらわれました」とは述べるが、行基が大仏造立に協力したことは触れていない。国家と民衆を対立する存在として捉える左翼史観からすれば、民衆のリーダーである行基が、聖武天皇の要請に応えて大仏造立という国家的事業に協力したことは、都合が悪いのだろうか?

 しかし、聖武天皇が「一枝の草、一にぎりの土」をもって手伝おうとする者があれば許すように、と命じたその姿勢に、仏教の心を国民一人ひとりにまで広めたい、という聖武天皇の願いが窺える。

■6.「わたしは国民とともにこの大事業をなしとげたい」

 前述の大仏建立の詔に関して、[5]では次のようにその趣旨を紹介している。

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「夫(そ)れ天下の富を有(たも)つ者は朕(ちん)なり。天下の勢(いきおい)を有つ者は朕なり。この富勢を以てこの尊像を創る。事や成り易くして、心や至り難し」・・・

「魂のない造像事業は、いたずらに人民の労力を損ずるにすぎない。それは罪の深いことだ。造像にあずかる人々よ、心してこの仕事にあたろうではないか。」

「もし更に人の一枝の草、一把(ひとにぎり)の土を持って、像を助け造らんことを情願(ねがう)あらば、恣(まま)にこれを許せ。」

「もし人民が寄進したいというのであれば、どんなにわずかの寄進でもよろこんで受けよう。わたしは国民とともにこの大事業をなしとげたいからだ。国司や郡司はこの造営事業にさいして人民を苦しめてはならない。」[5,p208]
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 天皇の富や権威をもってすれば、大仏を建立することは容易だが、それでは「心や至り難し」と聖武天皇は言う。その「心」とは、国民一人一人が盧舎那仏、すなわち天照大神の恵みに感謝し、それに応えて世のため人のために尽くそう、という報恩の心だろう。

 国民全体にその報恩の心が広まれば、平穏な国家が築かれる。聖武天皇が大仏建立を志したのは、大仏建立という一大事業を通じて、国民の間に報恩の心を広めようとされたからではないか、と推測する。

 行基が、民衆の力を集めて用水路造成や架橋などの社会事業を進めたのも、その過程を通じて、民衆に世のため人のために尽くそうという心を起こさせることが目的の一つであったろう。

 とすれば、行基の社会事業も、聖武天皇の大仏建立も、その根本の思いは共通していたと考えられる。だからこそ、聖武天皇は行基に協力を求め、行基もそれに応えたのであろう。その思いに共鳴して「一枝の草、一把の土」を持って大仏建立に参加した国民も少なくなかっただろう。

 こう考えると、奈良の大仏の貴さは、その世界一の規模もさることながら、それを天皇と民間宗教家、国民が「世のため人のため」という志を持って力を合わせて実現した点にある、と思われる。この我が国史の美しい一幕は、中学での歴史授業の補足説明として、ぜひ先生方に語って頂きたい点だ。

■7.光明皇后の慈悲

 聖武天皇の大仏建立などの事業を支え、また自らも貧窮者や病人の救済施設設立などを進めたのが、お后である光明皇后であった。渡部昇一氏は皇后の事績をこう述べている。

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 仏教的な慈悲の心を持つ皇后はライ病患者の救済にも力を尽くした。・・・(かつては)病人は社会から隔離され、その家族や一族まで不可触選民のごとく扱われたほど嫌われ、差別の対象となったほどであった。

 にもかかわらず、天平の昔に、最も身分の高い皇后が悲田院(ひでんいん)や施薬院(せやくいん)などの救済施設を建て、一千人の垢を洗おうという願を立てたのである。その一千人目のライ病患者が、膿を吸ってくれるよう願ったので吸ってあげると、その病人が仏の姿に変わって消えたという。

これは伝説にすぎないが、ライ病院を建て、自らその患者の世話までしたということは事実である。[3,p162]
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 この光明皇后の意思を継いで、近代における救ライ事業を後押ししたのが、大正天皇のお后である貞明皇后であった[c]。

 このように我が国の歴史には、史実を語れば、そのまま道徳教材になってしまうような美しい物語に事欠かない。そういう歴史の一コマを通じて生徒の情操教育に資するのも、中学の歴史教育の役割だろう。光明皇后の事績については、自由社版にも記載がないのは残念な点である。

 戦後の歴史教育は、歴史を国家と民衆の対立として捉える左翼史観から、天皇や皇后が国民のために尽くした美しい事績を否定し無視してきた。その残滓として残ったのが「暗記物」と堕した歴史教育であった。そんな歴史教育が中学生の共感を呼ぶはずもないのである。
(文責:伊勢雅臣)

■リンク■

a. JOG(134) 共生と循環の縄文文化
 約5500年前から1500年間栄 えた青森県の巨大集落跡、三内丸山遺跡の発掘は、原日本人のイメージに衝撃を与えた
http://jog-memo.seesaa.net/article/495116393.html

b. JOG(766) 古墳はなぜ作られたのか?
 その規模と数で世界史的にも特筆すべき日本の古墳が作られた理由は何か。
http://jog-memo.seesaa.net/article/201209article_4.html

c. JOG(200) 暗き夜を照らしたまひし后ありて
 ライ救済事業に尽くした人々の陰に、患者たちの苦しみを共に泣く貞明皇后の支えがあった。
http://jog-memo.seesaa.net/article/495116408.html

■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
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1. 五味文彦他『新編 新しい社会 歴史』、東京書籍、H17検定済み

2. 藤岡信勝『新しい歴史教科書―市販本 中学社会』★★★、自由社、H23
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4915237613/japanontheg01-22/

3. 渡部昇一「『日本の歴史』〈第1巻〉古代篇―現代までつづく日本人の源流」
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4898311571/japanontheg01-22/

4. 長部日出雄『私が愛した日本人 第3回 行基』、「正論」26.1

5. 虎尾俊哉『日本の歴史文庫3 奈良の都』★★、講談社、S50

6. Wikipedia contributors. "毘盧遮那仏." Wikipedia. Wikipedia, 20 Sep. 2012. Web. 4 Apr. 2014.

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