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【短編小説・下】 君との愛を知りたい(約6,500字)

<あらすじ>
 フリーターの佐和子(さわこ)は、自由奔放な恋人・亮平(りょうへい)に振り回されながら、自分のイラストで食べていくという夢を叶えるために日々邁進している。
 亮平の振る舞いに文句の一つも言えない佐和子は、疲れを感じ始めていた。

前回


 スーパーの仕事は午後三時に終わった。その足で待ち合わせ場所のレトロな喫茶店へ行き、真美ちゃんに朗報を伝える。

 「ママ向けの雑誌でお悩み相談の特集を組むらしくて。そこに読者の心をリラックスさせるような、優しい動物の挿絵が欲しいんだって」

 持ち込みをした東光愛樹社から、簡単な仕事がきた。オファーが来たのは持ち込みをした書籍部ではなく、雑誌部だった。

 相原さんが雑誌部の同期に私を紹介してくれたらしい。人生で初めて、企業から発注を受けた。夢のようだった。

「さわちゃんの絵は、保健室やカウンセリングの部屋にあったら安心するような暖かい雰囲気があるもんね」

 真美ちゃんの柔らかなウェーブヘアが揺れる。誰からも評価されない時代も、こうやって真美ちゃんの言葉に支えられてきた。

 「この一年で少し変わったよね。さわちゃんの絵」

「うん。夏ぐらいから、黄色やオレンジの暖色系を使って仕上げることが増えたかな」

 以前は、水色とか寒色系の色合いで仕上げていた。それは私が地元で見てきた雪と氷の世界の影響が強かったからだ。


「動物の表情も、以前のさわちゃんなら、あえて口元を描かずに無機質にしていたでしょ? 私は今の可愛らしい表情のリスさんやキツネさんの雰囲気、好きだな」

 真美ちゃんからポートフォリオ集を受け取り、中をパラパラ開く。前半ページは冬、後半ページは春のような印象だった。

 ずっと貫いていた描き方を変えるなんて。十代のころの自分には、考えられないだろうな。

「東京に……長く住んだからかな。人間って、変わるもんだね」


***


 日が暮れた帰り道、吐いた息が白かった。今夜は結構冷え込みそうだ。薄手の手袋をつけて、アパートまで歩いた。

 地元の北海道で過ごした冬は、東京の冬と違った。雪国で暮らしている人なら、冬が来るたびに何度も思う。もう雪なんて嫌だと。

 でも、人間は雪が降ることを止められない。受け入れて、自分の居場所から跳ね除ける以外なかった。

 漁師の父は、天候が悪くない限り、真冬でも最も冷える深夜三時ごろに出勤する。朝五時ごろ起きる母は、父に代わって雪かきの続きをした。自分や弟も手伝わされたものだ。

「今夜は亮平が来るから、エアコン入れておかなきゃ……」

 家に帰ってエアコンのスイッチを入れる。もう六時半だ。急いで夕飯の支度をしなくては。


 たまには外食にでも連れて行ってくれたらいいのに。私の料理にケチばかりつけるわりに、亮平は私の手料理を食べたがる。うちでの食事以外は、コンビニご飯やカップラーメンばかり食べているせいだろう。

 亮平は肉が食べたいといつも言うけど、肉は高い。物価の値上がりもあるし、亮平は量も求める。私の生活費から出費していると赤字だ。

 画材を買わなきゃいけない。それにフリーランスとして生きる上では、貯金もしっかりしなくてはいけない。

 亮平は自由奔放だ。物流倉庫勤務の給料が入れば、ギターを買ったり、スニーカーを買ったりしている。しかも、どちらもコレクション用のようだ。

 「そんなの買う余裕があるなら、うちで食事する分のお金、少し出してよ」 そう言えたらいいのに。なぜかそれすら躊躇(ためら)ってしまう。

 家に帰って、ハンバーグのタネを作る。節約のため、半分豆腐でかさ増しする。どうせ彼は気づくまい。それを昨日作り置いていたトマト煮込みの中に入れて、軽く煮込んだ。五分ほど火にかけたら、火を止める。

 煮込み料理は、冷ますと具材に味が染みこむ。人間もきっとそうだ。低温のときもあれば、沸騰するときもある。

 相手と一つの鍋に入る。時には腹ただしいことも許容し、煮込まなければならない。そうすれば、そのうち溶け込むだろう。


 ちょうどそのとき、スマホのバイブ音がした。

『冷凍倉庫の応援で、少し残業になる』 

 この寒い時期に、寒がりの彼には応えるだろう。気の毒に思った。

『暖かいハンバーグのトマト煮込み作って待ってるよ』そう返事をすると、亮平が喜んだ顔のスタンプを返してきた。


***


 初めての企業案件は、好評だった。雑誌アンケートにも私のイラストが可愛いという声が複数届いたらしい。

「仕事が早くて助かるって、同期の友達が言ってましたよ。私も紹介した甲斐があるわ」

 偶然、東光愛樹社内で再会した相澤さんに声をかけられた。謙遜して、深々とお礼を伝えた。

 滑り出しは好調だ。でも、油断してはいけない。永遠に仕事がもらえるわけではない。他の会社にも、持ち込みに行かないと。もっと実力もつけなくては。


 私には、イラストしかない。

 子供のころから勉強は苦手だった。友達も少なかった。家の中でずっと絵を描いていた。ずっと父と母のように、あの町で暮らすと思っていた。

 でも高校の時に運命が変わった。

 美術部の先生の勧めで、水彩画をコンクールへ出したところ、入選した。初めて自分の中に、少し誇ってもいいものを見つけた気がした。

 反抗期も相まって、高校卒業後は絶対に東京へ行って絵の勉強をすると決めた。この町で漁師と結婚して、母さんみたいにホタテの殻をむいて暮らせばいいと言う父を見返したかった。

 絶対に、夢を叶える。私は自分の絵で、食べていくんだ。


***


「来ない……」

 平日のホワイトデーは、亮平も私も仕事が休みだった。先月に私は手作りのチョコを送っていた。たまには外デートがしたいと、映画デートの約束だった。

 気になってた映画だった。イギリスの田舎町で男の子が主人公。CGで登場する可愛い動物たちの動きがとても愛くるしくて、ぜひ劇場で見たいとずっと思っていたのだ。

 上映は夕方四時半から。もう十分前だ。連絡もつかない。映画館が入っているビルの一階、大型スクリーンの前で待ち合わせだった。友達同士、恋人同士。いろんな人たちが笑顔で結びつき、そこから去っていく。


 嫌な予感がしていた。もしかして亮平は、パチンコにいるのではないか。調子がよくて、夢中になって、時間を見ていない。ほんの少しのつもりが、そうじゃなくなっていた——。


 待ち合わせ時刻から一時間後、ようやくLINEが来た。私の予想は当たっていた。

「悪い! めっちゃ調子良くてさ! 勝ったから、映画見て、帰りは美味いもん食って帰ろう」

 待ちくたびれた私が行ったカフェにやってきた亮平は、にっこり笑った。遅刻を取り返せるほどの勝ちがついたから、詫びができると思ったのだろう。

「……この映画は、公開から時間も経っていて。平日は一日一回しか上映してないの」

「……というと?」

「もう、この映画は見れない。しかも、今日が公開の最終日だった」


 珍しく、化粧もしっかりして、おしゃれもしてきた。だけど今、客観的に自分を見たら、相当なブスだろう。それぐらい表情が固くなっていた。

「いやー悪い。でもさ、正直俺はその映画は興味なかったし。DVDとか出たら、買ってやるからさ。それより飯食いに行こうよ。もちろんおごる。焼肉とかどう?」


 亮平が笑顔で、悪びれなくテーブルの上で手を差し出す。その手は、膝の上にある私の手を待っている。

 沈黙のあと、私は右手を亮平の手の上に重ねた。別に焼肉に心惹かれたわけではない。その沈黙の後に、どうすればいいのかがわからなかった。


 馬鹿にしないでよと、立ち去る度胸もない。沈黙を貫き続ける根性もなかった。

 食後は二人で私の家に帰り、夜の遊戯が始まる。今夜は少し爪を立てるように、彼を抱きしめた。

 そうして天井を見ている時、本当は家に持って帰るはずだったインスピレーションが、ゼロだったことに気づく。今日は早朝から昼過ぎまでスーパーで働き、絵も描いていない。


 ただ、振り回されて終わった。ただ、川の中を泳いでいる。流れに逆らえないのは、愛なのか。それとも自分の意思の弱さなのか。


***

 翌朝目が覚めると時刻は昼だった。亮平はいなかった。仕事へ行ったのだろう。私は今日は仕事が休みだ。

「寝ちゃった……」

 一日のうち、半分が終わってしまった。絵を描かなきゃいけないのに。やらなきゃいけないこと、たくさんあったのに。

 自分で決めたことすら、できていない。情けなさが込み上げる。ブレーキもハンドルもろくに動かない車のようだ。

 すーっと、一滴の涙が頬をつたう。カーテンの隙間から、春の暖かい日差しが入り込んでいる。


 もうすぐ付き合って、一年になる。このままでいいのだろうか。両手で顔を覆った。座り込んでいる布団から離れられなかった。そこから立ち上がって動くと、この温もりはもう消えてしまうから。


***


 うまく描けない。下絵に何度もバツマークを大きくつけた。描いた動物たちが、全然可愛く見えない。今までと同じように描いているのに。


 私のスーパーの仕事がない日は、亮平と会わない。それは付き合い始めたころからそうだ。一日中、没頭して絵を描くために。

 でも一人の時間が長く、苦しく感じる。描けない。大好きなラジオもうるさく感じて消す。カーテンを閉めたままの午後、シーンとした部屋の中で、私は灰にでもなってしまいそうだった。

 ピーンポーン。


 誰だろう。玄関を開けると、宅急便だった。送り主は母だった。

 中には羅臼町の昆布、北海道道民が愛するカップ焼きそば、母が勤める会社の水産物の加工食品が入っていた。

 薄緑色の封筒が入っている。中を開くと、現金三万円と手紙が入っていた。

『先日は雑誌ありがとう。こちらは本屋もないから、助かります。イラスト、可愛く描けていたね。お父さんにも見せました。何も言わなかったけど、喜んでいましたよ。

 この小さな町を自ら飛び出し、夢を叶えていく佐和子を誇りに思います。佐和子なら、なんでもできる。でも、無理はしすぎないでね。夢も一つ叶ったし、そろそろ一度、顔を見せに帰っておいでね。待ってるよ』


 父の気持ちを想像し、母の温かさを感じた。果実を凝縮して、ようやく絞り出た一滴を口に入れたような達成感を感じた。

 同時にそれは、追い討ちでもあった。今の自分の描けない状況。恐怖だった。このままでは、ぬか喜びになる。

 自分を律さなくてはいけない。


***


「話って、何」

 さすがの亮平も、突然呼び出されて少し不安げな顔をしてベッドに座った。私も隣に座った。自分自身も、なんと切り出していいか、何も決めていなかった。手のひらから汗が出そうだった。

「あの……私、いまが頑張りどきで。イラスト」

「うん」

 そっけなく聞こえる声に、心臓が伸び縮みする感じがした。自分の太ももの上にある両手を見ていると、亮平は、そっとその手を握った。物流倉庫で、爪が黒く、肌もカサカサになっている手だった。

 しばらく沈黙する。初めての恋人だったから、こんな状況も人生で初めてだった。上手い伝え方がわからない。ストレートに言う方法以外、思いつかない。

「別れたいの……」

 この言葉以外の、ちょうどいい中間の言葉がわからない。言った瞬間、亮平の手がぴくっと動いた。重い空気が流れる。

 亮平が言葉を探しているのは、顔を見なくても横から感じた。早く、何か言って欲しい。

「どうしても、別れなきゃだめなの? それ……」


 言われた瞬間に、涙がぼろぼろこぼれた。今の瞬間の私には、自分の気持ちを伝えるだけで精一杯だった。


「ずるい……そんなこと……」

 次第に、わぁーっと子供のように泣き出す私は、ダムの決壊が壊れたようだった。亮平はそれを止めようと、慌てて抱きしめた。

 息が上がって、うまく声にならない。亮平は私を沈める呪文のように、ごめん、ごめんとひたすら頭を撫でた。

 私は言葉にならない言葉を口にして、気が済むまで泣いた。最後には力尽きて、亮平の介抱のもと、ベッドに横たわった。


「佐和子。お前が別れたいなら、俺は別れるよ」

 ベッドの外から、しばらく黙っていた亮平が口を開いた。その言葉に私はドキッとした。自分が口にした言葉なのに。いざそういう結論がまとまると、不安な気持ちや後ろめたさが襲ってきた。


「俺、実際だらしないし。佐和子の足を引っ張るなら、離れたほうがいい」

 いつもは子供っぽい亮平が、少し大人びて見える。実際この人は、私より二歳年上だ。でもこんな一面は、初めて見た気がした。


「私ね……亮平のせいにしたくないの。上手くいかないことを。でもそれは、私が悪いんだよ……」

「そんなことないよ」

 優しく頭をなでてくれる。やっぱりこの人、ずるい。いつもは散々、私にわがままばかり言うくせに。

「佐和子は夢を叶えるために東京に来たんだろう。優先順序があって当然だ」亮平は子供が謝るときのような顔をした。


「いつもイラストに夢中の佐和子が、俺だけのためにいろいろしてくれるのが嬉しくて……。いつもワガママばっか言って、迷惑かけててごめんな」


 初めて亮平の心に本当に触れた気がした。もしかして、私はずっと寂しい思いをさせてたんじゃないか。

 シフトをあわせて休日を一緒に過ごすことなんて、滅多にしなかった。私が絵を描きたいから。でも本当は、我慢させていたのかもしれない。


「俺はね、ずっとお前に憧れてたよ」

「え?……どういうこと?」

 亮平は恥ずかしそうに笑いながら、頭をかく。

「路上ライブ。趣味でやっていたってのも、飽きたから辞めるなんてのも、全部嘘。俺には自分の夢を貫く根性がなかっただけよ」

 布団に入った私の体をぽんぽんと叩いた。

「全然、そんなふうには見えなかった……」

「そう見せないようにしてだけ。カッコ悪いだろ」

 亮平はいつもの調子で笑った。そして歌を口ずさむ。初めて会った時に亮平が歌っていた「泣かせ歌」だった。

『こんなに悲しい1ページは見たことがない』

『君のいない人生って つらいものですね』

 あのときと同じように、失恋ソングが元気に軽快に歌われる。一節歌うと、亮平は自分で「イェーイ」と盛り上げた。


「俺いくね」

 亮平はためらわずに立ち上がった。私は慌てて体を起こした。あっという間に亮平は玄関に行った。

「ま、待って!」

 亮平は立ち止まらず靴に片足を突っ込んだ。履き切らないままに、ドアを開けて家を出ようとした。

「本当に待って!」

 そう叫んで布団から飛び出た。


 ちゃんと自分の気持ちをもっと話せておけばよかった。なんでずっと押し殺していたのだろう。

 亮平の抱えていたことも、もっと聞くべきだった。


 裸足のまま、ドアの外で亮平を後ろから抱きしめた。亮平は黙ったまま動かなかった。

「……佐和子」かすれた声だった。「こういうのはな。一回決めたら、曲げちゃダメだ」

 背後にいる私の腰を、亮平はぽんぽんと叩いた。その手は、離せと言ってるようだった。

「……違う。ちゃんと、好きだった。だから、ちゃんと終わらせるの」

 亮平のパーカーから、亮平の匂いがする。暖かい温もりを感じる。物理的なものだけじゃないと、今ならわかる。


「間違った私の考え方を終わらせる。絵や夢と同じくらい、私にとってこの温もりも必要だよ……!」

 私が描く氷の世界に春が入り込んだのは、亮平に出会ったからだ。

 寒色が暖色になって輝く世界。この人のおかげだ。亮平と付き合ってから、私が見る世界も、描く世界も変わったんだ——。

「これからは、ちゃんと共有したい。お互いが我慢するんじゃなくて」

 一度言ったことを曲げるなんて。都合がいい女だ。でも今伝えないで、いつ伝える。思うままに言い切った。


 亮平はくるっと振り返った。

「体冷えちゃったよ。今日は一緒に寝ていい?」

 亮平の笑顔を見上げると、まつ毛の先に涙がついていることに気づいた。私は、もちろんと笑った。


 ベッドの中で、手を繋いで話し合った。わがままは。ほどほどに。遅刻は絶対許さない。亮平は気をつけますと言った。

「あと、家での食費も半分出して欲しい。どうせ外で食事なんて滅多にしないし。私の負担ばっかりだよ」


「そのことなんだけどだ」

 亮平はじーっと目を見つめていった。

「一緒に暮らさない?」

 私は目を丸くした。亮平は緊張しているように見えた。真剣さを感じた。


「2LDKで一部屋は佐和子のアトリエにしてさ。この部屋だと、作業するのも狭いでしょ」


 年明けぐらいから、ずっと考えてたんだよね、と亮平は言った。

 雪も溶けたし、亮平も故郷に一度連れて行こう。

 両親の顔を思い出しながら、私は笑顔で頷いた。


<あとがき>
 小説執筆練習のために、日常にあるような物語を気ままに短編作品を書いています。本作は5,000字程度の予定でしたが、思った以上にドラマが生まれて合計12,000字程度になりました。

 本作品のテーマは「愛とは、共依存ではない」というものでした。最初は佐和子が自立して、亮平と別れる予定でした。
 しかし、私自身も徐々に「愛って言葉にできない行間がたくさんあるよな」と佐和子の言動を書きながら思うようになりました。

 恋人とぶつかったとき、破局・再生のどちらもあると思います。どっちを選んでも、間違いはないと思います。でも本作品では、佐和子が亮平の見えない愛に気づけてよかったなと、自分も書いていて最後に微笑みました。

2023.12.27 ジョーツマ

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