投票率なんかより肝心なこと
投票率は低くて当たり前
僕に言わせてみれば、投票率が低いなんて当たり前だ。
投票という行為がどういうものなのか、冷静に考えてもらいたい。
日曜日という休日に、投票所という場所にわざわざ足を運び、列に並んで待たされた挙句、赤の他人の名前を書くのである。
さらには、「あなたの一票が政治を変える」といったきれいごとがよく謳われるが、都内の有権者数は11,290,229人。「あなたの一票」にはたった0.000009%の影響力しかなく、論理的に考えれば、一票が都政の行方を変えることなどあり得ない。
僕が大学時代に聞いた政治学教授の「支持者が最も多い政党は『都合つかず党』だ」というセリフは、まさに的を得ている。
普通の人は、余裕があれば日曜日に予定を入れているだろうし、余裕がなければ働いている。忙しい毎日があっては、投票どころではない。
投票=政治に参加、ではない
こんな風に、投票率に対してひねくれた考えを持っている僕だが、実は自分自身、選挙がある度にどこかの陣営に助っ人ボランティアとして入っている。投票よりはるかに時間労力対効果が悪い行動に出ているのだ。
その理由は、選挙を「投票」という行為を超えて体験することが重要だと考えているからである。
選挙で投票することが民主主義の基本、みたいなことがよく言われるが、投票なんて北朝鮮でも行なっている。「投票すること」が民主主義国家において国民が果たすべき責任、と考えるのは、大きな間違いだ。
米国の4年おきの大統領選の盛り上がりを見て、これぞ民主主義の姿と思う人も多いだろうが、米国大統領選の投票率は50%台で、中間選挙の投票率は40%前後。日本の総選挙と参院選の投票率を鑑みると、日本における投票率の方が高いとさえ言える。
政治を政治家に丸投げするのは無責任
日本と米国で根本的に違うのは、投票率ではなく、日常における政治への身近さだ。
米国では、中学時代に国会議員に手紙を書いて返事をもらい、高校時代に国会議員の地元事務所でインターンをし、大学時代に徹夜で政治を議論し、大学院時代に選挙ボランティアを経験した、という人がざらといる。
果たして、これを一つでも経験したことがある日本人がどれほどいるか。
この国の政治に関する一番の問題は、投票することが国民の政治に対する責任、と考えている人が大半を占めていることだ。
これほど無責任な考えはない。
政治を政治家に丸投げし、思った通りにいかなかったら、愚痴を言う。これは、「何が食べたい」と聞かれて「何でもいい」と答えておきながら、実際に食卓に出されたものをみて、「これは嫌い」と駄々をこねる子供に等しい。
政治を自分のものとする民主主義の責任
民主主義国家において「あなたが政治を変えられる」と言うのは正しい。だが、変化を起こすのは「あなたの一票」ではなく、政治を自分のものとして自ら責任を負う姿勢だ。
まずは、政治家一人の話をしっかり聞いて、その人の人柄と政策を学ぶ。
そして、他の政治家の人柄を政策を学んで、応援する政治家を見つける。
応援する政治家を見つけたら、政治家の選挙を手伝う。
政治家の選挙を手伝うことにより、一票ずつ積み重ねていく大変さを知る。
選挙の大変さを知って、それでも政治家になろうと思う人に期待を寄せる。
期待を寄せた政治家を尊敬するようになって、紆余曲折を経ながらも実績を重ねていくのを見守る。
政治家を見守るにつれて、政治に希望を持つようになる。
政治に希望を持つようになり、自分も社会を変えていきたいと考えるようになる。
自分も社会を変えていきたいと考えるようになり、自らも政治家を目指す。
自ら政治家を目指し、首長や大臣になって地元や国を変えていく。
こんなことは北朝鮮や中国では実現できないが、日本でならできる。
だからこそ、日本は民主主義国家なのだ。「投票によって国を変えられるから」ではない。
議論されるべき論点は、投票云々以前に、「日本人はなぜ選挙の時しか政治に触れないのか」なのだ。
[注:この記事は2020年7月に自分のブログに載せた投稿に微修正加えた上で再掲したものです]
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