41歳。遅すぎる「親からの卒業」

メンクリの通院。
母に付いてきてほしいと頼んだら、来てくれた。
病院の玄関に着くと、弟も立っていて、驚いた。
わざわざ仕事を休んで京都からまた来てくれたのか。
エホバの証人として、僕の人生をさんざん振り回してくれた両親に対しては、幼少期の分をちょっとは償えと要求したくなる一方、弟には全く頭が上がらへん。先日の入院以来、弟に会うのはこれで三度目。

母も、もう65歳。すっかりおばあちゃん。
一方、僕は41歳。現役世代ど真ん中。
本来、僕が老いた母をフォローせなあかんことくらい、誰から指摘されなくたって痛いほど分かってる。
僕の良心が四六時中、僕を責め続ける。
いくら他人から逃げれたとしても、自分の良心からは逃げられへん。

母が僕の通院に付いてきたのは、僕がアスペルガー症候群と診断された6年前以来。発達外来の初診から数ヶ月後、僕は転院していたので、現在の主治医に母が会うのは初めてだった。

東京から大阪に戻ってきたのが4月。
それ以来、大阪の主治医に受診できたのは、丸2ヶ月後の6/1。
なんとか受診できるよう、ねじ込む努力をもっとすべきだった。
「くらしきくんはいつも事後報告だから」と、主治医は呆れ顔でこぼした。
でもね、先生、ここのクリニックは大阪市内でも数少ない発達外来だから、いつも予約が取れないですやん。
メールアドレスが分かってる支援者にはccで随時、経過報告を送っている。
先生の場合、予約を取って診察してもらわな報告できひんから、タイミングを逸してたわけですよ。
さんざん愚痴をこぼしながらも、主治医は「もし大阪に帰ってくるときは、またおいで」と言ってくれた。
何より有難い言葉だった。

僕は当分、関東で暮らすことになると思ってる。
二年も暮らした東京はもう、僕にとってホームタウンになりつつある。
逆に、二年間のブランクが空いた関西のほうが、変わりすぎてて付いていけへん。

IT業界は東京一極集中の構図が極端で、関西に戻ってきても仕事がない。
いや、仕事を選り好みしなければ、関西にも仕事はもちろんあるねんけど、就労能力の著しく低い僕にも「オープン雇用」(障害者枠での就労)以外にフリーランスなど多様な働き方を選べる東京にとどまるほうが、生きる上での選択肢をより多く確保できる。

二度目の離婚にしても、東京から大阪へのUターンにしても、「くらしきくんは長期的な人間関係形成が苦手で、すぐリセットしようとする」という主治医の的確な指摘はまったくごもっともとしか言いようがない。
リセット癖は、親父の悪癖でもある。
そんな親父を長年蔑み、嫌悪していたのに、やはり嫌なところに限って似てしまうのが「親子」というものだ。
でも、僕は親父のように逃げない。自分の弱さに向き合っていく。
それが僕にとって「親父を超える」ということだと思っている。

折角この2年間で築いてきた、東京での人脈をどうやって大切に保っていくかという課題に向き合うほうが、今の僕にとっては大切だ。
関西に「逃げる」癖から、そろそろ卒業せなあかん。

診察の順番を待っている間に、僕は自分のWAIS診断グラフの紙を母に見せ、母は、母自身と末弟の結果を見せてくれた。
還暦を過ぎた母が、自分の特性と向き合い、克服しようとしている姿を見て、改めて感服した。

僕の言語性IQは平均より上。知識をインプットする能力はそれなりにある。
ただ、インプットには僕なりのペースがあって、それを超えるとオーバーフローする。
リアルタイムに入ってくる情報を処理していく能力は、僕は平均よりかなり下。一方、母は平均よりだいぶ高いらしい。
その数値を見て母が「そらあんた、しんどかったよな」と言った。

僕が母に「慌てたときこそ、ゆっくり話すように努めなさい」とアドバイスしてくれたことが役立ったと話すと、母は「ああそれ、小学生だった弟から教えてもらったのよ」と言った。
なんだ、母自身が理解していたわけではなかったのか。
やはり、両親には僕の特性を理解することはムリだったようだ。
生まれたときからずっと僕の背中を見てきている弟が、誰より僕の理解者だった。

6つ下の弟が生まれてきてくれたことを、改めて神に感謝せなあかんと思った。
今は彼が、僕と母との間を取り持ってくれている。

母には、「嫌われても結構、別に自分のことを理解してほしいと思わない」という冷めたところがある。
誤解されていることに気づいても、わざわざ誤解を正そうとしないし、「理解してもらったからといって、何が変わるの?」という。
共感性の乏しさは、両親共にダントツやな。
そこは、僕も弟も、親には全然似なかった。

通院帰りの車中で、母と弟と三人でいろいろ話した。
そもそも日常会話を拒まれている母に、僕の経緯から話そうとすると、すごく時間がかかる。母が僕に対してどう思っているかを聞きたいのに、逆に質問で返してくるから、苛立った。

母からすると、バプテスマを受けた僕は、エホバの証人が真理だと分かっているのに放蕩な生活をしているだけ、と思っていたようだった。
そうではなく、バプテスマの意味を小学生当時の僕は理解してなかったということ、中学・高校当時から僕がエホバの証人の教えに納得してなかったことに、母はようやく気づいたようだった。

「分かった」という一言で、悲しげな顔を浮かべた母は僕の話を遮った。

今度こそ、親子のコミュニケーションの道は絶たれたのだろう。
僕は改めて、排斥・断絶というシステムへの憤りに震えた。

あと10日で、僕は関西を離れる。
ようやく僕の心の整理はついた。
父に対しても、母に対しても、言いたいことは伝えられた。
明日、永遠の別れを迎えたとしても、もう悔いはない。
両親に「僕を受け止めて」と求めても、叶わない。
共感性が乏しい両親に、それを求めてもムリなことなんだ。
ようやくそのことに納得した僕は、諦められれた。

記録的な豪雨から一転、照りつける太陽と青空の下、僕の心は静かに、親との戦いを終えた。

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