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良くも悪くも。

両親の近くに住んで何かあった時には力になりたいなどと思ってはいるものの、それが全ていい方向に進んでいるわけでもなく。

自分も友人のいない中で、いつもひとりでいるし。
親は親で、もっともっと狭い世界の中で生きている。

一緒にいることで無意識に無理をさせてしまっていたりするのも事実で。
何処かへ行くという行動も一見親孝行に見せて、いつもの日常から少し無理をさせてもいるのだなと感じる。

気晴らしは必要だと感じる一方で、色々を気をつけなくてはいけない事も増えていく。食べるものもそう。行動の制限もそう。

昔、東京に両親が来た際も、無駄に都内を歩き回らせてしまい、疲れたと言われてしまったり、車でランチを食べに行った時も、少し山を一緒に歩いた時も、倒れて救急車を呼んだりした。

行動の制限。自分基準ではなく、その中での一番弱者にフォーカスを当ててあげないといけない。
言葉にできずに我慢してしまうこと。子供のように、先読みをして気遣い、こちらから、余裕を持って限界を決めてリードしてあげないといけない。
反省の繰り返し。

最低でも月一で母とランチに行くのだけど、今月に入ってから、胃が痛いのが治らないとかで、病院に相談すると、他の臓器に影が見つかったとかで、精密検査をすることになった。

その臓器というのが、暗黒の臓器と言われる膵臓。病を発症しても自覚症状がなく、病気に気づいた頃には手遅れの事も多いという。

明日、検査結果を聞きに一緒に病院にいこうと思う。
何かあったらどうしようと心配する姉と。なるようにしかならないからとりあえず、結果出てから考えようと言う俺と。

最近身近でもよく両親の死の話も増えてきた。自分に耐えられるだろうかとか。むしろ自由になれるのだろうかとか。
色々想像はするものの、やはり会えなくなるというのは寂しいなと思う。
そしてどちらか一方が残されてからの方が大変になることは目に見えている。

でも会えなくなるは寂しい、そう思えるだけの愛情をくれたことには感謝しなければいけない。
仲のいい家族ばかりではないし、親というものはヒーローであってほしいと願っていた幼少期には、裏切られた感覚で反発も多かったけど、あくまでも一人の不器用な一人の人間と思えるようになってからは期待もせずに、ただ生きてくれていることに感謝できるようになった。


親ガチャなんて言われる時代だし、お金がないと言われ進学も諦めた事もあったけど、貧乏は貧乏なりに好きに生きてきたし、結局は全てが自分にマッチしていたのだろうと思う。

元々必然のルートの上を、選択したかのようにただ進むゲーム。
身の丈にあったものだけ目の前に現れ、チャンスも努力した時だけ現れる。



ゲイとして、どこかで何かを背負って生きている強さみたいなものに強い憧れがあった。結婚して、子供を作り、家庭を守って更に両親を支えていく。

それらを満足にできずに未来さえ見据えずに、生きることや自分のこだわりだけに強く拘って、ただただ今日明日だけを見て生きて来てしまった。
満たされないゲイと満たされない両親。

病気の結果こそまだわからないけど、もう少しちゃんと真摯に向き合って、お互いにもう少し楽になれるようにまずは一番身近な人から少しずつ幸せにしないとその先があるわけもない。

母は、何もできない無気力の鬱の父親を見ていて毎日ストレスなのだろう。
母はきっとずっと諦めていないのだろう。いつか元気になってくれる。
いつかまた一緒に出かけられる日が来る。もう5年以上経つけど、薬も効かなくなるというし、その時がきたらどうしよう。

ただ自分の理想を求めるばかりで、自分は何も調べたり、行動に起こすことはしない。
二人共がそういう人生だったように思う。

本当にどうやって生きて来たのか、謎な二人だ。
これもきっとそれぞれが6人兄弟で親からの愛情や経済状況も不安定な所で育ち、満たされずに大人になってしまったからなのだと思う。
環境。

誰しもがアダルトチルドレン。
自分もそう。親もそう。ただ生きていかなければいけない。
不器用なりに。なんとか。
休んだり、自分の心に聞いたり。ただ心と体は正直で、体のどこかしらにガタが出てくる。SOSのサイン。

今でこそ、ADHD、HPSなど、なかなか原因の分からなかった生きづらさに名前もできて、そうだったのかと理解することはできても、型にはめてしまうとそれはそれで、またそこに胡座をかいてしまうというか、更に動けなくなる。仕方のないことだ、病気なのだからと。

コロナの後遺症クラッシュと言われる少し動くだけで、息切れがしたり、動けなくなる症状も、何となく手足が動きづらい、何もできないしたくないと思っていると、クラッシュなのかななどと安易に思ってしまったりする。全てに理由が欲しくて、全てを何かのせいにしたい。

唯一の楽しみがカフェに行って、ケーキやコーヒーを飲むこと。
脳がじんわりを幸せだと感じる瞬間がわかる。複雑に絡まった脳内の整理と。

ただ、砂糖も小麦も乳製品もカフェインも良くないともう一人の自分が言っていて、幸せだと感じてしている事とその先の良くない未来が戦う。
今が何よりも大事。未来は今を生きた先にしかないと正当化したり。

全てのことが、めんどくせえなあと思う。何もしたくないなあと。ただ何もせずにいることが一番の無意味な時間であって、行動の先にしかいい意味でも悪い意味でも何かが生まれないとも実感した。


だから何もせずともこうして、今の現状と少しずつ残していつかこんな時もあったんだと見返せたらいい。今年は、手帳の日記も続いている。
珍しい年だ。


明日病院8時には行くようにするから、早めに寝よう。老人になると、病気や薬の話ばかりというけど、本当にそれくらいしか、日常に変化やネタがない。ここを始めた当初はもっとゲイげいしいネタでなどと色々考えていたのに、何もなさすぎて、親のことがメインになりつつある。

この先、いい年して狂い咲く日がきて、ネタに溢れたらそれはそれでいいなと思う。暖かくなったら、リハビリに付き合ってくれる人を探そうではないか。

それではまだ寒暖差のある日々が続きますが、引き続きご自愛ください。
また結果を書きます。

















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