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【発達障害と生きづらさ】2−2.逆説のセオリー【2.ひとと人間の境目から】

 さて、何を隠そう、二〇一八年六月末日が〆切となっている本稿を記しているのは、あろうことか六月中旬である。そこでというわけではないが、先日起きたばかりで世間の注目度も高い、ある事件について考えたい。十四日には山陽新幹線の割れたボンネットから人体の一部が発見され(調査の結果人身事故であることがわかった)、十八日には大阪北部地震があり、てんやわんやの世間様のなかであまり新情報が出ないせいかほんの一瞬影を潜めたようなかたちにはなっているものの、今回扱う事件は新幹線殺傷事件である。
 報道によると六月九日午後九時四十分過ぎ、東海道新幹線のぞみ265号の12号車で刃物を持った男が乗客を襲い、一人が死亡し、二人が負傷した[25]。動機を含め現時点では詳細は明らかになっていないことも多いが、被疑者の実母は報道機関に向けてコメントを発表[26]。今回の事件を「予想もできず、まさに青天のへきれきで、自殺することはあってもまさか他殺するなんて思いも及」ばなかったとし、発達障害を理由に育てにくさはあった[27]ものの実母なりに「愛情をかけて育てて」きた旨、不登校や祖母との養子縁組など被疑者の生い立ち、またこれまで「どちらかといえば正義感があり優しかった」子どもが事件を起こしたことへの困惑を綴った。
 発達障害に言及した箇所が記事では削除されているように、被疑者が発達障害であることと事件を結び付ける具体的な証拠はなく、偏見の助長につながる深刻な問題としてNPO法人が要望書を公表している。
 なお、今や取り上げられることの多い発達障害であるが、日常的な文脈では誤解もあるため、改めて説明しておきたい。発達障害は「先天的な脳の機能障害[28]」によるもので、主に、自閉症スペクトラム障害(ASD)、学習障害(LD)、注意欠陥・多動障害(ADHD)の三つで構成されている。こうしてカテゴリを三つに絞ってもそれぞれの症状はさまざまなものがあり、発達障害というだけでは具体的にどのような症状や社会生活での困難があったのかは判断できないということは念頭に置いておくべきだろう。また、精神障害についての国際的な診断基準となっている「米国精神医学会による診断基準であるDSM[29]」の最新版にあたる二〇一三年出版「DSM-5」によって、これまでアスペルガー症候群とされてきたものを自閉症スペクトラムという概念で包括することになった〔DSMとは、「精神障害の診断と統計マニュアル(Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders)」の略称である〕のだが、自閉症スペクトラムの概念が導入されたことによって、以下で引用するように、決して単一的ではあり得ない症状のあり方をより一層浮かび上がらせていると理解できる。

自閉症スペクトラム障害は、「連続体」を意味する「スペクトラム」という言葉を使用することで、その症状には多様性があり、連続体として重なり合っているという考え方を表している[30]

のちに灰色診断という考え方にも触れるが、一口に発達障害と言っても症状やあり方はさまざまである。特に幼少期に少し変わった子だとされながらも診断や支援を受けるに至らなかった場合などでは、それだけ周囲にとって「わかりやすく」特性が現れているわけではないということであり、一般精神科医には診断が難しいようなケースさえあるという[31]。
 さて。新幹線殺傷事件に関連してあえて発達障害に触れたのには理由がある。けれども、事件の文脈で発達障害に触れることで誤解を生むリスクがあることは認めなければならない。そこで、理由の詳細は後述することにして、まずは基本的な事実とそれに関連して浮上してくるいくつかの原則を確認しておいてもいいだろう。
 結論から言えば、あるひとが発達障害だということそれ単体が犯罪行為の原因になることはほとんどない。発達障害があることを理由に犯罪を犯すかもしれないと考えるのは誤りであるし、犯罪が起こるのを防ぐためにそうした人々をあらかじめ社会から排除しようとするのは不適切であり非建設的である。
 けれども、豊川主婦殺人事件をはじめとして、一般に理解され難い動機が明らかになりその被疑者が発達障害である場合、犯罪行為と発達障害が関連付けて理解される──偏見を助長することにより同様の事件を減少させる可能性を減じるという意味において現実に役立つものではないが──ということが行われてきたのも事実であり、そのような言説への反発や反論として、被疑者が発達障害であることをむやみに報じないでほしいと思うのは至極当然であろう。
 とはいえ、こうした対応が止むを得ないものだとしても、このような姿勢が若干事態を複雑にしている感があるのは否めない。最初に述べた通り、発達障害単体が犯罪の原因となることはまずない一方で、あくまでそれは発達障害「単体」の場合であり、しかるべきかたちで社会が機能せず不適切な環境に置かれたとき、間接的に発達障害を原因として抱えた問題の捌け口を意図せず犯罪行為に求めてしまう可能性があることを見逃してしまうからだ。発達障害をそのまま犯罪と結び付ける言説が持つ、その明らかな馬鹿らしさはべつとしても、犯罪の文脈からむやみやたらと発達障害という要素を排除することは、同時に、発達障害の二次的なものとして問題を抱える人々が適切な支援を受ける道をも閉ざすことにならざるを得ない。

不幸にも発達障害のある人が犯罪と関わることになったとき、その人に悪影響を与える複雑な社会環境が存在し、また、そこには適切な対応(支援サービス)の不在が見出されます。[32]

即座に犯罪や反社会的行為と結び付くことがなくとも、適切な環境に身を置くことができず二次的な症状が現れることがある。その一例として、児童期の反応であるが、反抗挑戦性障を挙げてみよう。「意地悪で執念深い(……)、イライラしやすい、自分の失敗を人のせいにする[33]」等の臨床的特徴を持つ反抗挑戦性障は、以下のような要因があるという。

第一に、認知の歪みから正しい状況判断ができないため、しばしば迫害体験が重なると、被害的にとらえ、反抗的な態度や責任転嫁をしやすいこと。第二に、言語化するのが苦手であるために、容易にイライラし、反抗的な言動をとりやすいこと。第三に、知覚・感覚過敏の問題から、イライラの常在につながることも多いこと。そして、誤学習によって、要求をとおすための手段として、挑発的な態度をとってしまう傾向があることが認められ、そのような場合にはさらに、相手の表情や意思が読めないため、行動に抑制が効きにくいという状況になるといった要因が挙げられる。[34]

このように、「定型発達の人が『わがまま』と捉える行動も、発達障害のある人にとっては、『正当な理由のある当然の行動』と感じている場合も珍しく[35]」ない。認知の歪みや、言語化する能力、知覚・感覚が過敏であることが原因であるにも関わらず、周囲がそれに気付かなければ適切な対応をしてもらうことはできない。
 また、自閉症スペクトラムを例にとると、社会的な行動の理解や表出が困難なことから、不安感が強く「日常の些細な出来事で心を乱されやすい傾向[36]」があったり、社会的場面に即した適切な行動が取れないことがある。その際、そのひとが発達障害だということが周囲に理解されていないと、不適切な養育やいじめ等が迫害体験となることがあり、それが動揺したときの暴力的な反応として習慣化される[37]。のみならず、二次的な症状として精神疾患や精神障害が併存することもあり、その結果、「表面的には抑うつや不安などが主症状だが、よく見ると発達障害がベースにありそう[38]」なひとが医療機関に訪れることも少なくない。
 ところで、これまで発達障害の臨床が児童精神科医に任されてきたという事情もあるのだが、先に述べたように、幼少期に発見されない程度の発達障害であると、大人になってから心療内科を訪れても一般精神科医には判断が難しいケースが多く存在するという。そのような現場の事情から、発達障害的でありつつもそう診断していいか迷うようなグレーゾーンについて症例を集めたのが青木省三、村上伸治による『大人の発達障害を診るということ』である。「臨床実感に根ざした確かな見方[39]」と評されるように主に臨床家向けであるこの症例集は、灰色診断という発想が特徴的であろう。
 それが肯定的なものであれ否定的なものであれ、今日では発達障害にまつわる言説が幾多も飛び交っているが、一旦落ち着いて考えてみると、発達障害の特性には誰しも心当たりのあるようなものが少なくない。急な予定の変更に戸惑ったり、場にそぐわないことを言ってしまったり、理由もわからずイライラしたことが一度もないというひとはなかなかいないのではないだろうか。こうしたことから、定型発達とされるひとでも発達障害のチェックリストにおいてゼロ点になることは少なく、逆に、重い障害があったとしても満点になることは難しい。「発達障害の程度の濃さは人それぞれである。黒に近い灰色の人もあれば、ほとんど白色の灰色の人もある[40]」のだ。
 さらに、「発達障害特性は、その人にかかるストレスによって、強く現れたり逆に見えにくくなったりする[41]」という。ストレスが強い状況では「最大瞬間風速」として発達障害だとはっきりと診断できるような特性が現れることもあるが、部署や勤務先を変えるなどして適応できる環境に身を置けば、徴候はあるものの発達障害だと診断するほどでもないというレベルの症状に落ち着くことも少なくない。それ故、診断に迷うグレーゾーンに位置するひとはどんな病気や障害でもいるものであるが、「発達障害徴候は状況に応じてカメレオンのように変化[42]」することから、発達障害の診断においては「灰色の領域」が著しく広くならざるを得ないという。このように、発達障害と定型発達の境目を一本の線としてはっきりさせることは基本的に不可能である。
 さらに言ってしまえば、「発達障害は生活障害[43]」である。DSMやICD〔「疾病及び関連保健問題の国際統計分類:International Statistical Classification of Diseases and Related Health Problems」の略称〕にある診断条件では心理検査などの数値は求められておらず生活をするうえで困る症状のいかんによるとしているし、患者が無理なくその後の人生を生きるという目標のために「発達障害は生活障害を通じて実感すべきもの[44]」なのである。
 そう考えると、発達障害特性が強く出るか否かは、広く捉えれば社会のあり方に左右されることがわかる。問題は、発達障害のひとが持つ特性そのものではなく、ある程度の特性を持ったうえで社会に適応できるか、である。

その〔診断書を書くかどうかや障害者手帳の取得などにつなげていくかを検討する〕際に最も重視するのは、「この人はこのままでやっていけるかどうか」である。発達障害特性がありながらも、それなりに仕事が続くなどの社会適応ができているならば、発達障害特性があることを自覚して、今後は家族などの周囲の人に「いくらか助けてもらいつつ生きていく人生」を勧める。するとそれだけで、その後は十分やっていける人もいる。その一方で、「灰色だが、この人は今のままでは、仕事にも就けず、周囲にも馴染めず、孤立して不安定な人生になっていく」と思われたら、障害者手帳などを受け、作業所や障害者就労、ヘルパーなどのさまざまな支援を受けるように勧めている。[45]

たとえば、「うさぎとかめ」の競争は陸上で行われるためうさぎが有利になるが──寓話ではうさぎが怠けていて競争に負けるが、実際であればうさぎが勝つだろう──、ゴールが山頂ではなく竜宮城の場合はかめに有利になるように、ある社会のなかでのやりやすさは環境やルールによって異なることに異論はあるまい。とはいえ、ここでしたいのは、うさぎのほうが優れているとかかめのほうが優れているとか、あるいはうさぎに合わせるべきとかかめに合わせるべきという話ではない。現状、社会というものが主に定型発達のひとに向けたデザインになっており[46]、そのような環境にうまく適応できないひとがいたとしてもそのことをもってそのひとの能力が低い──それ故、うまくいかないのは自己責任だ──などとは言えない、ということである。
 そして、重要なことなのだが、「発達障害の予後を決めるのは障害の重さではない[47]」。

知的障害も伴う人が、作業所や障害者就労で安定して働いていることは少なくない。一方、国立大学を卒業しながら、家の中に長年引きこもっていたり、強迫は食べ吐きなど嗜癖系の泥沼にはまっていたり、年老いた両親を暴力で支配していたり、迷惑行為で警察沙汰になったりなど、どうにもならない人生になってしまっている人はかなりいる。予後を決めるのは障害の重さではなく、「助けてもらうパターンを身につけたかどうか」である。[48]

ここにあるのは、できないことを無理にやろうとしない姿勢である。かめが陸を歩こうとするとどうしてもゆっくりになってしまうが、それを単純に早く歩けるよう訓練するのはナンセンスだと誰もが思うだろう。「発達障害臨床の最終目標は、その人の個性や持ち味が認められ、凸凹が許容される生きやすい社会の実現である[49]」と言うように、適応できる環境が何より重要になってくる。
 こうしたことを弱者への配慮という視点で捉えてもいいが、自己責任論をこよなく愛し、断固として配慮したくないであろう方々に配慮し記述すると、発達障害のあるひとが社会への不適合により生活な場面でさまざまな保護が必要な状態に陥るのを放置するよりも、ある程度適合できる環境で自立して生きるほうが社会のコストはかからないはずである。また、誰しも持つであろう発達障害特性が否定されないことは、あらゆるひとの過ごしやすさに繋がっていくだろう。
 もう一度、発達障害と犯罪の関係に戻ろう。皮肉なことだが、これまで論じてきたように、ある種の人々を危険的な存在とみなしあらかじめ排除しようとすることが実際に平和な社会を実現することへの助けにならない。そもそも発達障害と定型発達は線引き不可能なうえに、発達障害のあるひとの問題行動はむしろ、発達障害特性に理解がなく定型発達を前提として厳しく接する環境によるものだからだ。「発達障害のある人へのまなざしが厳しいものであればあるほど、犯罪のリスクは高」まる以上、「多様なスタイルを認めあい、多様なサポートが存在する社会が、私たちがめざすべき社会なのでは」という結論[50]に至るほうが現実的であり、建設的である。
 あるひとが障害や病気であることを理由に犯罪を犯すかもしれないというヒステリックな声をあげることが防犯上役に立たないという事実は、のちにべつの視点から論じることになる、コロンバイン高校銃乱射事件の加害生徒の母親による手記『息子が殺人犯になった』でも触れられている〔太字は筆者による〕。

この本のために専門家に話を聞くとき、私は必ず、この質問をした。「脳の障害と精神疾患と暴力の関連を、不名誉なイメージを増大することなく説明するにはどのようにしたらいいですか?」ケント・キールは見事にまとめてくれた。「精神病の患者が暴力的であるという思い込みを排除することが、彼らが暴力的にならないように助ける最良の手段です」[51]

 当然のことだが、新幹線殺傷事件について被疑者の真意や事件の原因を知るには、今後の捜査や裁判により明らかになるのを待つほかない。とはいえ、緊急要望書を出さなければならない現状は、その副作用を含めなかなか考えさせられるものがある。改めて言うほどのことではないかもしれないが、これまで述べてきたように、発達障害そのものが原因となり事件を起こすことはあり得ない。そうであるからこそ、被疑者が発達障害であることが事実ならば、発達障害が直接かつ単一的な原因ではないことを理由に偏見を助長させないよう切り離すというよりもむしろ、何らかの困難を抱えていたかもしれない彼は適切な支援を受けることができていたのか、そのような社会が実現されていたのかを検証する建設的な議論への呼び水になるのではないか、と考えることが理性的な態度のひとつとしてある。そしてそうした態度は、被疑者に二次障害など副次的問題が見られない場合には、今回の事件と発達障害は間接的にも無関係であると証明となるだろう。
 ちなみに、結果的に犯罪を犯した人間を「障害」という枠組みから特殊化する文化は発達障害に限ったことではないようである。

僕が累犯障害者の問題について本を書いたとき、福祉の関係者たちは口をそろえて言った。
「加害者になる知的障害者のことを取り上げるより、被害者になる知的障害者の問題のほうが先でしょう」
どうやら、同じ知的障害者でも、罪を犯した人だけピーッっと線引きをして、自分たちが支援する対象じゃないとみなしていたみたい。[52]

この引用で主に想定されているのは軽犯罪であるが、それにしても、新幹線殺傷事件のように人命が失われているようなケースで処罰感情が勝るのは──当事者は特に──自然なことだろう。けれども、忘れてならないことは、そうした犯罪への非難も処罰も事後的にしかできない、ということである。すべては起こってしまったあとなのだ。もちろん、被疑者を徹底的に非難することで今後同様の事件は起きなくなるという幻想を抱く自由は誰にでもあるわけだが、それはまさに、事件を起こし逮捕された人間に「現在の日本社会で最大の福祉施設は刑務所です[53]」と言わせる現状を肯定するものにならざるを得ない。

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[25]「東海道新幹線殺傷:男、無言で女性次々と 助けた男性犠牲に 車内に響く悲鳴」、毎日新聞<https://mainichi.jp/articles/20180611/dde/041/040/053000c>(記事掲載日2018/06/11)。
[26]「『連れ戻していたら…』新幹線殺傷、容疑者母コメント」、朝日新聞デジタル <https://www.asahi.com/articles/ASL6C5R5ML6COIPE020.html>(記事掲載日2018/06/11)。
[27]現在、該当部分は削除されている。認定NPO法人地域精神保健福祉機構は「東海道新幹線のぞみ車内で起きた殺傷事件の報道で、『発達障害』や『自閉症』の診断名や、精神科入院歴などが報じられていることに対して、『偏見の助長につながる』として、報道各社に配慮を求める緊急要望書〔「東海道新幹線内殺傷事件の報道について緊急要望書を提出」<http://www.comhbo.net/?p=18083>〕を公表」した。「のぞみ殺傷、診断名の報道は『偏見の助長につながる』、配慮を求める声」、弁護士ドットコムニュース<https://www.bengo4.com/c_1009/n_8029/>(記事掲載日2018/06/12)。
[28]菊池春樹「発達障害」『わかりやすい犯罪心理学』、文化書房博文社、一〇〇頁。
[29]村上伸治「大人の発達障害の診断と支援」『大人の発達障害を診るということ』、医学書院、三頁。
[30]田淵俊彦、NNNドキュメント取材班『発達障害と少年犯罪』、新潮新書、一七頁。
[31]前掲書、「大人の発達障害の診断と支援」『大人の発達障害を診るということ』、二〜四頁。
[32]前掲書、「発達障害」『わかりやすい犯罪心理学』、九九頁。
[33]杉山登志郎『そだちの臨床』、日本評論社、一〇六頁。
[34]同上、一二八頁。
[35]前掲書、「発達障害」『わかりやすい犯罪心理学』、一〇三頁。
[36]同上、一〇五頁。
[37]同上、一〇七頁。
[38]前掲書、「あとがき」『大人の発達障害を診るということ』二八一頁。
[39]福田正人、「書評」『大人の発達障害を診るということ』医学書院<http://www.igaku-shoin.co.jp/bookDetail.do?book=88827>(最終閲覧日2018/06/26)。
[40]前掲書、「大人の発達障害の診断と支援」『大人の発達障害を診るということ』、六頁。
[41]同上、七頁。
[42]同上、八頁。
[43]同上、一一頁。
[44]同上、一二頁。
[45]前掲書、「大人の発達障害の診断と支援」『大人の発達障害を診るということ』、一九頁。
[46]前掲書、「発達障害」『わかりやすい犯罪心理学』、一〇三頁。
[47]前掲書、「大人の発達障害の診断と支援」『大人の発達障害を診るということ』、二六頁。
[48]同上、二六頁。
[49]同上、三〇頁。
[50]前掲書、「発達障害」『わかりやすい犯罪心理学』、一一〇頁。
[51]スー・クレボルド『息子が殺人犯になった』、亜紀書房、三六七頁。引用中のケント・キールに関しては、以下を参照のこと。「Professor of Psychology, Neuroscience and Law The University of New Mexico」、The Mind Research Network<https://www.mrn.org/people/kent-a-kiehl/principal-investigators>(最終閲覧日2018/06/22)。
[52]山本譲司『刑務所しか居場所がない人たち』、大月書店、八二頁。
[53]渡邊博史『生ける屍の結末』、創出版、二八三頁。

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