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研究室を脱出せよ!【11】ポスドク、潜伏する。

黒岩さんと話すようになって、僕は現状に対する不満をなるべく言わないことにした。そのかわり、今ある選択肢の中から最善なものは何かを考える事に注力する事にしたのだ。例えば研究の事に関していえば、田所教授はまだやっていない研究に関しては非常に悲観的だが、ひとたび良い結果さえ出てしまえば、そのあとはむしろかなり楽天的になる傾向があることに気付いた。そこで、かねてから考えていた新テーマに関しては、誰にもいわないでこっそりスタートすることにしたのだ。僕はこの研究を密かに「サテライト研究」と名付けた。そして、このサテライト研究が相当程度にうまく行きそうな見込みがたったときに初めて発表することにしたのだ。

もちろん長期的にみればこの方法の生産性が高いとは思えない。研究が初期段階のときこそ、大勢の人間でディスカッションして、いろいろなアイディアを出し合うべきなのだ。そして、その過程こそが、こうした基礎研究の醍醐味でもあると思うのだ。でも、それができない以上、そうすべきだ、といっても始まらない。僕は選択可能な現実を作り出すことにしたのだ。

幸いにして、このサテライト研究はすこぶる順調な滑り出しを見せた。それどころか、研究を進めていくと意外な現象が見えてきた。

僕は生物学が分かるという触れ込みでこのラボにきた手前、どうしても自分にしかできないことをやってみたかった。そこで注目したのが、前のラボで研究していたある種のがん遺伝子だった。田所研の研究のレベルは高いとはいえ、やはり化学の出身ということもあってどうしても有名な遺伝子の解析に頼りがちだ。その点、僕の扱っていた遺伝子はまだマイナーなわりに、ES細胞の分化にも関わっているらしいという報告がチラホラでていて、玄人筋からは注目されていた。そこで、田所研にある蛍光プローブを使ってこの遺伝子の発現を追ってやろうと考えたのだ。

予想どおり、蛍光プローブはこの遺伝子の発現を正確にトレースした。ところが、細胞が分化していくにつれ、極めて短時間だが遺伝子発現が全くなくなる時間があることに気がついたのだ。そんなはずはないと思って何度も試してみたが、結果はいつも同じだった。

いままでそんなことは報告もされていなかったので最初は自分の結果を疑ったのだが、どうやら消失時間があまりにも短時間のため、従来の方法では検出されなかったらしい。

僕は久しぶりに興奮した。コントロール実験の結果が出るまでは黙っていようと思っていたが、その結果が出たのが田所教授のメールが送られてくる前日だったのだ。結果は完璧だった。

コントロール実験のデータを整理すると、僕はこれらの結果を黒岩さんに見てもらうことにした。黒岩さんは、僕がサテライト研究を仕込んでいたのはお見通しだったようだが、結果自体には驚いていたようで、

「これだけデータがそろっていれば、田所教授も満足しない訳にはいかないだろうな。」

と、自分のことのように喜んでくれた。

次の回のミーティングは、予想をはるかに上回る反響だった。新しい遺伝子に関する考察を少しお話します、といったときは教授の顔に不愉快な表情が一瞬浮かんだが、それでも次々に出される結果を見るに従って、明らかに興奮したような表情に変わっていった。教授からは質問がいくつか出たが、それらに答えるための実験は全て予めおこなっておいた。発表が終わると、教授は

「このテーマは、これからの研究室の中核をなす研究の一つとしてやっていきましょう。」

と満面の笑みで言った。ただ一人、三井さんだけはつまらなそうな顔をしてあさっての方角を眺めていたが。

その日以来、僕の研究は急激に忙しくなった。データを揃えたとはいえ、やらなければいけない実験は山のようにあるからだ。とはいっても、転職をしようという僕の決意に変わりはなかった。うまくいった結果にしか反応しない田所教授の態度は、予想どおりだったとはいえ到底納得できるものではないし、この調子ではある日突然研究を打ち切られる可能性だってありうる。

そうはいっても、いざ職務経歴書を書こうとしても何も浮かんでこない。なぜ戦略コンサルを目指そうと思ったのか。なぜ、ポスドクの能力をいかせると思ったのか。そして、なぜ研究者をやめてまで転職しようとするのか。これらの疑問に一つ一つ答えるには、僕のモチベーションはすっかり下がり切ってしまっていた。やる気のスイッチがOFFになってしまったのだ。

そうこうしているうちに、季節は冬を迎え、いつのまにか桜の開花宣言がちらほらと流れ始める時期になってしまった。

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