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躁うつ人は、二度悩む

最近、自分が躁うつに「頼って」生きてきたことを実感している。

「躁うつ」は「便利」だ。

誰よりも馬力を出すことができる。あれはすごい。目の前の与えられた、もしくは自分が注目した何かがあれば、そこに身体中のエネルギーを注ぎ込むことができる。テストやプレゼンの準備、留学のための勉強、芸術活動...。ガーっと5時間くらい集中することができる。所謂「ゾーン」に入って、自分は無敵状態になる。軽く全知全能人間になることができる。

あんなに楽しいことはない。頭から文章は湧き出し、絵のイメージも頭から湧き上がる。それを紙に投影するのは楽しい。いや、楽しいと思っていない。体が勝手に動き出す。情熱に体が突き動かされて、自分は何も意図して考えていない。そういう状態が、究極の意味で「楽しかった」のかもしれない。

そういう時の絵は、すごくいい。私は絵というものは何も習っていないのだが、結構いい絵が出来上がる。これはまさか「名画」が生まれたのかと思ったりした。詞も少し書いた。これは「名画」ならぬ「名詩」だと今でも思っている。

一方で、芸術活動をする自分は「不安定」だった。不安定だから、その不安を埋めるために「芸術活動に走っていた」と言うのが一番正確だ。「描かず(書かず)にはいられない」という衝動性。描いて(書いて)いる時の謎の焦燥感。主観的に言えば、頭が燃え盛ったまま、脳みそ内の大量の細胞一つ一つが走り回って、ぶつかり合って摩擦熱を発しているかのようなまま、何かを描いて(書いて)いる状態だった。

そんな生活を3年間以上続けた後、その不安定さが仕事にまで浸食してきたこともあり、とうとう精神科を受診することになったのである。

そこで私は、双極性障害と診断された。気分安定剤や抗精神薬を処方され、半年以上飲み続けている。そこで、わかったことがある。

躁うつ人は、二度悩む。

精神的な不安定さを燃やしながら芸術活動をするのは、心底しんどい。精神的な不安を抱えながら生きるのは、しんどい。だが、薬を飲み続けると、どうだろうか。またもや、泣きたくなるほどしんどいのだ。

文章も芸術も、書けないし、描けない。以前ほど思想的ではなくなって、頭は空っぽになってしまった。「思考することこそ自分だ」と思っていたのに、それがアイデンティティだと思っていたのに、そのアイディンティを持つことができなくなってきた。以前ほど、作品に魂を注ぐことができない。新しい芸術へのアプローチ方法は試しているのだが。

私は刀を奪われ、丸腰にされた武士のようだ。戦う術がなくなってしまったように感じる。アイデンティティの喪失。躁うつ人の多くが薬を飲むのをやめてしまうのは、昔の自分に戻りたくなるからなんだろうか。

昔の自分に戻りたくなる。本当の自分に。

でも戻ったらダメなんだ。「ME 2.0」に自分をアップデートしてみたいという気持ちを持って、前を向いて、千と千尋のラストシーンのように振り返らずに、薬を飲み続けて、健康的な生活を続けたいと思う。

※これは数ヶ月前に書いたものです!


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