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コルビュジエの思い出① - 建築とは「問題解決」だ

私はル・コルビュジエという人物について、大層なことは語れない。だが、彼の思想や建築物から深い感動を味わった、一個人としての思い出なら語ることができる。今回はそれを語ってみたい。

コルビュジエと新国立劇場

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一昨年の春、私はコルビュジエ展に行った。この展覧会が行われたのは、コルビュジエ自身が設計した、上野の西洋美術館だった。

ル・コルビュジエとは、ご存知の通り、近代建築の巨匠である。

この日、私は非常に驚いたことを覚えている。建築家の展覧会であれば、通常、模型や設計図などのデッサンで溢れているのだろうが、この展覧会には、予想に反して多くの抽象画や機関紙で溢れていたのだ。さらには、コルビュジエだけでなく、友人のオザンファンの作品も多かった。彼は「形の抽出」という抽象画という形態から、建築分野にそれを応用していったようだった。ただ、理解できたのはそれだけで、いくらキャプションを読んでも、何となくしか理解できなかった覚えがある。彼の建築哲学はとても難解だった。

時が経って、先週。

あの日は、なぜかバスを途中で下車した。フラフラとオペラシティを歩いて抜け、気が付くと新国立劇場にいた。夜十時くらいだっだため、新国立劇場は閉まっていたのだが、一階の周辺を歩くことができた。その時に受けた衝撃は計り知れない。景色の移り変わり。低いレベルで満たされた水。どこから見ても景色が変化して見え、全く飽きない。簡素で幾何学的で階層的な飾らない造り。それと壁面に沿って堂々と在る階段。全体に対していいアクセントになっている。この時、不意にコルビュジエを思い出した。

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そういえば、彼が建てたあの西洋美術館もそうだった。どの地点から見ても景色も構図も光も変化していて、本当に飽きなかった。前を向いて歩いても、下の階を見下ろしても、変化がある。展示物のキャプションを読みつつ、色々な角度からその建築物を見回し、彼の建築哲学を理解しようと試みていたことを思い出した。むしろ、展示物より美術館自体の鑑賞に夢中になっていたかもしれない。彼の建築哲学は理解できなかったけれど、その面白さだけは確実に理解できた。

資料映像『コルビュジエ 初期』を観て

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この日を境に、コルビュジエへの関心が再び戻ってきた。というわけで、今日、TSUTAYAで『コルビュジエ 初期』というタイトルの資料映像を借りてきたのである。

コルビュジエという人物は、今となっては影響を受けていない建築家を探すのが大変なくらいの巨匠だが、初期はかなり受け入れられなかったらしい。

彼は、従来の装飾的建築を否定し、非装飾的である種無機的な建築の方が良いと主張していた。逆に(過度な)装飾こそが不自然なのだ、つまり表層的でしかなく本質的でない、と主張していた。彼の主張した建築は、初めは「工業的だ」と非難されていたが、実は人々が生活しやすいように完全に計算し尽くされている。

彼の言う、「建築の本質」とは何か?

時代によって標準は変化し、それによって建築も変わってきた。建築というものは、「現代の生活」や「現代の技術」によって、変わる。つまり、時代が変わった現代ならば、その現代なりの建築があるということなのだ。

現代の技術があるから、より建物を高層化して道幅を広くし、木々を植えることができる。発展し続けた文明の忘れ物である「自然」に回帰することができる。また、現代は鉄筋コンクリートを素材に用いることができる。そうすることで、柱の本数にも自由が生まれ、その分空間を自由に区切ることができる。また石造りなら彩色はできないが(おそらく石造りである意味がなくなるので)、鉄筋コンクリートならどんな彩色も可能だ、と。

先ほどのコルビュジエの言う「建築の本質」とは何か?という問いへの答えは、コルビュジエがテレビ番組のリポーターから受けた問いへの回答にあると思う。

「与えられた問題に対して、秩序を与えることだ」

つまり、建築とは「問題解決」だと言ったのだろう。現代の生活スタイルにより、人々は心理的ストレスや公害など、あらゆる問題を抱えて生きている。これらを解消する都市設計をしていくべきだと言っているのだ。本質とはこういうことなんだろう。こういった問題解決に、確かに装飾は要らない。彼の建築の魅力とは、「人々の生活への調和」なのである。人々への深い思いやりを感じた。

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