映画『i -新聞記者ドキュメント-』を観て - 政治的腐敗を断絶する唯一の道とは
◆映画『i -新聞記者ドキュメント-』について
映画「新聞記者」の原案者としても話題を集めた、東京新聞社会部記者・望月衣塑子を追った社会派ドキュメンタリー。森達也監督が、新聞記者としての取材活動を展開する望月の姿を通して、日本の報道の問題点、日本の社会全体が抱えている同調圧力や忖度の実態に肉迫していく。東京国際映画祭「日本映画スプラッシュ」部門の作品賞を受賞。
(2019年製作/113分/日本)
オフィシャルサイト
出典:映画.com
森達也監督へ、感謝
屈せずによく撮った、というのがまず最初の感想だった。
我々のような一市民に、この国のジャーナリズムの腐敗を、最もポップな方法で伝えてくれる映像があったことに感謝する。
この映画は私に、日本のジャーナリズムがいかに腐敗しているのかを思い知らせてくれた。この「やばさ」には、まさに「ドン引き」した。本編中に出てくる海外のジャーナリストたちも、この腐敗度合いには見るからに「ドン引き」であった。笑えるくらいに。(いや笑えないのだが...)
森達也監督、このような映画を撮ってくださったこと、本当にありがとうございます。
「知る権利」というより、「知る義務」
「知る権利」という言葉が、頭に残っているーー。
しかし、日本人が今更「知る権利」なんて、生温いことを言っている場合ではない。というのも、私たち国民は「政治について知ろう」としない、つまり「国家を監視しよう」としないために、すでに国もメディアも腐敗し、民主主義さえも形骸化しているのだから。ということは、
私たち国民一人一人が持つのは、「知る義務」なのである。
なのに、この権利だか義務だかを、我々は行使しようとしていないのは、なぜだろう。もはや存在自体を忘れているのか。そもそも、知らないのか...。
菅元官房長官の、恥ずべき姿
本編中、主人公である望月記者は菅元官房長官に対し、何度も官邸質問で至極真っ当な質問を繰り返した。しかし、菅本官房長官は、全く答えない。それどころか、「(答えるのが)めんどくせえな」という態度をあからさまに出す。これを見た私は、呆然とした。
「これが現総理大臣か...」
残念としか言いようがなかった。しかし、よく考えれば、彼をこのような態度で振舞わせているのは、他でもない、私たち自身なのである。国を監視しようとしない、私たち国民の責任なのである。私たちは国に舐められて当然だ。そのレベルで私たちは国民は、政治に無関心なのだ。
「事前に提出した質問」しかできない!?
「内閣官房長官記者会見」というものがある。本編では、森監督も望月さんも「官邸質問」という言い方をしていたもののことだ。この会見は、報道機関(記者)が政府に対して質問をする目的で行われる。
▲出典:首相官邸
ちなみに、官房長官には以下のような役割がある。
(官房長官とは)政権のスポークスマン(中略)。平日は午前と午後の1回ずつ、首相官邸で毎日記者会見を開きます。世の中で起きているあらゆることについて、政府としての見解を問われます。
(出典:withnews)
つまり、この官邸質問を通して、政府としての見解を、毎日報道機関に伝えているのである。
さて、以下の写真の菅元官房長官を見てみよう。彼は、この官邸質問の冒頭で、何やら「紙束」をめくっているようだ。一体、何をしているのか。
私は、この行為こそが"全て"を物語っていると考えるーー。
▲官邸質問の準備をする菅元官房長官(出典:首相官邸)
なぜ、彼は紙束をめくっているのか?
すでにお分かりだろうが、彼は「準備された回答」を読み上げようとしているのだ。この紙束は「台本」なのである。つまり、回答が準備されているのであれば、質問もすでに準備されているのである。とどのつまり、その場で記者は率直な質問をすることはできない。政府にとってみれば、それは「予期せぬ質問」であり、回答は準備されておらず、困るからだ。
まとめると、このような暗黙のルールがある。全て、本編からわかったことだ。衝撃の事実である。
・記者は、事前に政府報道室に提出しておいた質問しかできない
・官房長官は、その質問に対し事前に官僚が用意した「台本」(=回答)を読み上げる
・決まった記者しか、そもそも官邸には入れない
・官邸に入れる記者メンバーは、この十数年間変わっていない
まさに、癒着と忖度にまみれた「ままごと会見」だ。政府の顔色を伺い、政府のして欲しい質問をし、突っ込んだ質問をしない、何の意味もない記者会見を延々と行っているのである。誰が見ても、こんな会見には意味がない。日本は一体何をしているのだろうか...。
(※より詳細はこちらの記事をご参照ください。)
しかし、その中で望月記者だけは違う。彼女は、東京新聞記者として官邸に入り、「"政府報道室に事前に提出された質問のリスト"にはない質問」をするのだ。すると、菅元官房長官はおかしな態度をとる。...彼は、全く答えない。それどころか、「(答えるのが)めんどくせえな」という態度をとるのだ。しかし、こうなるのは当たり前だ。質問リストにない質問の回答は準備されていない。彼の「台本」に答えるべき回答は載っていないのだ...。
海外のジャーナリスト達からすれば、日本のジャーナリズムレベルは、低過ぎる。海外のジャーナリズムにおけるスタンダードは、間違いなく「望月記者」の方だ。間違っても、彼女以外の「事前に政府報道室に提出した質問リスト上の質問しかしない記者」ではない。
本編中、森監督は一ジャーナリストとして、官邸質問に参加しようと幾度となく試みたが、一度も参加が許されることはなかった。国民に本当に「知る権利」があるのなら、全国民の誰もが官邸質問に参加できるはずなのに、全くおかしい話である。また、もしも国民に本当に「知る権利」があるのなら、その主催者となるべきは「内閣記者会」という政府側ではなく、「知る権利」を行使する「記者側」になるはずだ。これについては、本編中で言われていたことであり、全くその通りだと思った。
「政治の腐敗に対抗するために、無関心な国民を変えていきたい」という思い、それを映画という形で実行に移した森達也監督に敬意を表したい。少なくとも、私は監督の意図をそのように理解した。
徒党を組むな、一個人として戦え
本編の最後に、パリ解放の映像が出てくる。ドイツ人と恋人関係にあったフランス人女性が丸刈りにされた(リンチされた)映像だ。この歴史を提示した上で、彼はこう伝えたかったのだと思う。
「政治に関心を持つのは素晴らしいが、思想で徒党を組んで、集団になって熱狂するのだけはやめろよ、不毛な争いになるから。あくまで一個人として、戦えよ」
ドイツ軍に支配されたフランスで、ドイツ軍と恋に落ちたフランス人女性。敵国人と恋人関係にあって何が悪いのか?個人としては、何も悪くない。好きになった人を好きになっただけ、という話であり、誰にでもあり得る。そのようなことが偶然起きた「一個人」を、「集団」で執拗なまでに攻撃する。集団の思想的な過熱は恐ろしいものだ。
徒党を組むな、ろくな結末にならないぞーー。
本編の最後、雑踏の中の望月記者が映し出される。彼女は、集団の誰とも群れることなく、一人で立っている。心に残る終わり方だった。
「政治的腐敗の断絶」への唯一の道
私はこの映画について書きながら、逆算という手法を用いて「政治的腐敗を終わらせるには?」という問いを繰り返し考えてきた。しかし、やはりこれを終わらせるには、上記の手法しかないように思う。つまり、まずは「若手×新進気鋭な政治家の輩出」が必要だということだ。そうすれば、政治は「かっこいい」「面白そう」というポップな印象になっていくと思うのだ。そうすれば、国民は政治に対して興味を持ち、次第に政治に対して意見するようになるのではないだろうか。普段カジュアルにゴシップネタを話すように。...もしくは「政治的であることがかっこいい」とされた、あの60年代のように。
とにかく、本当にこの手法しかない、と私は思っている。
仮に、次に政治的な盛り上がりを見せるのであれば、以下のような人物がそれをリードしているのではないだろうか。
・高学歴でない人物である
・おっちゃんではない若者である
・ポップな人物として知られている
・新進気鋭で、やり手である
政治的腐敗を終わらせるためには、上記のような人物を、みんなでスターにする必要性がある。もしくは、すでにスター的存在であり、実業家等の頭のキレる人間だ。
ZOZOの前澤さんでも、ホリエモンでも(ホリエモン新党はあるが)、SHOWROOMの前田さん等の実業家でもいい。AbemaTVである程度有名な人でもいい。誰でもいいから、政界に入るように説得し、彼/彼女らをポップスターにするようなプロデュースをする必要があるのではないか。ただ、この動きも遅く面白みのない政界には、やり手の人たちは誰も乗り込まないのが現状なのだが...。
さて、どれが一番近道か?
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