転職を考える(1)~年代別キャリア~
令和の時代になってキャリアという言葉がより一般的になってきたように思います。しかし、キャリアを人生という大きな枠組みでとらえることはなかなかないようにも思います。それは、あくまでキャリアが抽象的すぎるからなのかもしれません。そこで、今回はキャリアに必ずといっていいほどついて回る転職について考えてみたいと思います。転職をさまざまな角度から見て考察を深めたいと思います。
今回は、年代ごとの転職について考えていきます。
平成から令和にかけて、転職がより一般的になってきました。新卒の新入社員がひとつの会社に勤め続ける人の割合は近年減少の一途をたどっています。もはや、終身雇用制度の時代はおわり、転職が当たり前の時代になりました。人々の意識の上でも転職に対する印象は様変わりしてきました。一昔前は転職をすることはリスクだと言われ、転職が多いことは履歴書上ではネガティブな印象を持たれていました。しかし、時代は移り変わり、転職することは悪いことだという風潮は少なくなり、むしろ経験を積むこと、スキルを身につけることだという認識に変わりつつあるように思います。
しかしながら、人々の転職に対する認識がきれいに入れ替わったわけではありません。どちらかというとグレーな状態でしょうか。それは、転職をしようとする側の人は転職をより肯定的にとらえていて、会社側は転職をネガティブにとらえている傾向があるように思います。転職が一般的になってきたとはいえ、企業側にはまだまだネガティブにみている傾向が強いのではないでしょうか。
それは転職回数の多さに対する印象に表れてきます。特に、履歴書の職歴欄が多いと、離職理由を必ずといっていいほど聞かれます。それは裏返せば、転職回数が多いことをもともとネガティブにみているからだと考えられます。おそらく、離職理由は往々にしてネガティブなものだろうという先入観があるからではないでしょうか。転職回数の多さを、それだけの経験の蓄積・スキルの向上を図ってきたと肯定的にみることは少ないように思います。いくら、応募者が前向きな転職を繰り返してきたとしても、あえてそこに触れられなければネガティブにとらえられてしまう恐れがあるのです。だからこそ、職務経歴書の役割が大きくなってくるのです。
若年者では、転職の多さと勤続年数の関係が重要になってきます。新卒入社で1年も満たないうちに離職していたとすれば、そこに疑念を持たれかねません。3年の間に転職を繰り返していれば尚のこと「なぜ?」となります。しかし、企業の体質や労働環境はさまざまであり、中には過酷な環境も存在します。一概にはいえませんが、それでも企業側の転職に対する意識がいまだ古いままであることを考えると、それに対する説得力が必要になってきます。
また、若年者にとって転職を中長期的な視点でみることが難しいことも考えられます。特に、近年の社会情勢、経済的困窮の問題等の不安定さ、不確実性の高まりは若い人のキャリア形成にとってはとても重要な問題です。収入面で見ても、一度転職をするとほとんどは収入が減少すると思われます。いくら転職が一般的になってきたとはいえ、おいそれと転職ができるほど社会はそんなに甘くはないと誰もが感じているはずです。そういうわけで、中長期視点で戦略的に転職を考えることは若い人にとってはかなり難しいことではないでしょうか。
中高年齢層においては、やはり時代背景の問題がいまだ横たわっています。特にバブル崩壊とリーマンショックの2度にわたる経済不況は、雇用情勢に大きな影響を及ぼしました。当時は、特に就職氷河期世代においては、何の前触れもなく不況が訪れ、たちまち自身の雇用・生活が危機的状況に陥り、深刻な社会問題になりました。現在もその影響は残り、だからこそ就職氷河期世代に対する雇用施策がとられているのだと思います。
この年代における、問題の要因として考えられるのは、キャリア形成に必要な技能やスキルの習得の機会が設けられなかったことが挙げられます。ある調査では、企業が社員に対するOJT、OFF-JTの機会は正社員に比べ非正規社員が少ないというデータもあります。むしろ、派遣などの非正規社員からすれば、次の給与が支払われるまでのひと月、いやむしろその日暮らしの傾向が強かったのではないでしょうか。時給生活である以上、ひと月の手取りが14~15万円などいうのはざらだったと思います。私も経験がありますが、そのような収入では、技能・スキルの習得、資格取得などといったキャリア形成までとてもじゃないが意識が回りません。そのようなワーキング・プアを経験している人は中高年に限らず、どの年代にも多いものと考えられます。
高齢者層においてはまた様相が変わってきます。特に60代以上の人の多くは高度経済成長の時代に後押しされ、キャリアを築き上げてきた人が多いと思います。年功序列制度と終身雇用制度などの日本独自の雇用慣行の土台に立ち、自身のキャリアと企業の成長に不可欠な知識やスキルなどを身につけ、社会の発展に寄与してきたという自負があります。また、企業と労働者の間では、愛社精神や組織への奉仕と上位下達、労働者の帰属意識といった特性が時代にマッチしていました。そういう意味では、若年者からみれは恵まれた年代だとみられます。
しかしながら、この年代も二極化にあるように思われます。それは、順調にキャリアを形成してきた人たちとは違い、長期間にわたる貧困にあえいでいる人も実際には存在します。特に、この年代のキャリア形成の考え方はどちらかと言えば企業に依存する傾向が高いことが要因として挙げられます。それは、企業からすれば自社の従業員の囲い込みがあります。転職が今ほど一般的ではなかった時代、多くの人はできるだけ長く同じ会社で勤めようとしました。それは企業側にとっても良いことでした。というのは、スキルの習得は今とは違い、自社のみ、自社の業界のみに通用する資格やスキルの習得は後押しされていましたが、転職しても通用する汎用的なスキルの習得は、自社の社員にはあまり勧めていませんでした。これは、自社の社員に対する認識が今とは正反対のように思います。社員を今よりも財産と見ていたとするのは安直でしょうか。
そのため、多くの人は転職をすると、また一から技能やスキルの習得を進めなければならず、そのため収入もなかなか上がらなかったのではないでしょか。そういう人が定年の年代になり、いざ会社を辞めると次の仕事がなかなか見つからないという問題に直面します。いくら、高い技能を有していても、経験のない業界へや未経験職種に就くことは非常に困難です。いくらエグゼクティブな地位であっても、一度無職になるとそのような地位や肩書はほとんど意味をなさなくなってしまいます。そういう人に提供てきる仕事として、軽作業や清掃・警備員などを提案すると、「なぜ私がそのような仕事をしなければならないのだ」となるわけです。これまで社長だった、部長職で勤めあげてきた、大きなプロジェクトにかかわってきたというのは過去の話で、だからといって転職が有利になるほど、今の社会は甘いものではありません。そのようなことに初めて直面したとき、絶望感に見舞われるのです。
自分のキャリアとはいったい何だったのかと過去を振り返っても何も変わりません。いくら部長や課長職を歴任してきたとしても、それがただちに採用につながるとはとうてい考えられません。その際に重要になってくるのが、仕事にどのようにかかわってきたのかです。しかしながら、先にも書いたように、この年代は愛社精神や奉仕の意識、企業への帰属意識の高さからくる今の社会に不適応なキャリアを築いてきました。今や愛社精神などといえば、やばい会社、古い人などと烙印を押されかねません。
しかし、政府が労働人口の減少への対策として高齢者に雇用促進の政策をとっています。いくら政府から高齢者を雇うように企業が言われたとしても、企業からすればより長く勤めてほしい、より高い技能の取得をしてほしいというニーズから、おのずと若年者を雇用するのは当然の流れですよね。高齢者からしても、いくらさまざまな施策がなされたとしても、年齢には勝てないわけです。年齢というハンデを超えるほどの何かをもっていれば、もしかしたら有効なキャリアの構築ができるかもしれませんが、それは往々にして酷な要求ではないでしょうか。
ここまで、転職を各年代ごとに見てきました。そこでは、年代ごとの時代背景や問題の要因が違えど、根本的には同じように思います。それは、社会的、政治的、経済的な情勢がここまで変化してきたといはいえ、企業も一人ひとりの集合体であり、企業も労働者もそれぞれの意識が、昔にくらべそれほど変化していないことが挙げられます。いくら転職が一般的になってきたとはいえ、実際に雇用の現場では、転職はネガティブなものであり、離職回数の多さはハンデとなってしまうのです。そのようなネガティブさを補えるような「何か」があれば、まだ勝負ができるのかもしれませんが、今はまだそれはとても困難なものだと言えるでしょう。
今後、必要なこととして、より大局的な社会情勢をみる巨視的視点と、自身のキャリア形成における過去・現在・未来という微視的視点、特に未来を見通す視点はどの年代においても必要なことではないでしょうか。
今回は、キャリアを転職の視点から各年代ごとの時代背景や問題の要因から考えてきました。しかし、キャリアや転職に対しては他にも多くの問題がありますし、さまざまな見方があると思います。今回は、あくまで私なりの見解として考察してみました。
今回の記事はここまで。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
また次回、よろしくお願いいたします。
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