見出し画像

「災害」について今、考えられること

災害について考えてみる。

人間生きている中でさまざまな危機に見舞われる。その中でも地震や台風などの自然災害がある。自然災害を考えるにあたって二つの視点から見てみたい。一つは、自分が災害に遭わないために、また災害に遭ったとしてどういう行動をとることができるか。もうひとつは、自分が災害に遭った人に対してどのようなことができるか。この二つの視点から災害を考えてみたいと思う。

自分が災害に遭わないためにどのような備えができるか、ということは誰もが一度は考えたことがあるのではないだろうか。たとえば、水や食料の備蓄、避難場所や経路の確認など、さまざまな観点からいかにして助かるかを考えることができると思う。しかし、かという自分はというと、特に何もできていない。いや、できていないというよりやっていないという方が正確である。その根底にあるのが、「正常性バイアス」といった認知のひずみである。「正常性バイアス」は、いわゆる『自分は大丈夫だろう』という、悪い情報を無視し、実際の避難が遅れてしまうことの要因とされている。実際に、台風や大雨の際、行政から避難勧告や避難指示が出されても、避難行動を取る人がいないことがある。このようなバイアスの存在が実際の避難を遅れさせることが考えられる。

また、東日本大震災でもあったこととして、自分がいかに助かることが重要だとわかっていながら、そうならない場合もあるということが挙げられる。具体的には、当時学校にいた子どものことが心配でその親が子どもを迎えに行き、その際に被害にあったという例があった。その時に、自分がどう助かるかということが後回しにされてしまう例だと思う。もし、自分の子供は、学校で確実に適切に避難してくれる、大丈夫なはずだという確信をもつことができれば、自身の避難が遅れてしまうことは減るだろう。そういう意味で、それぞれの人がそれぞれの立場で場所でいかに助かるかということ考えておくことは、非常に重要であると思われる。

ひとつの鍵となるのが情報であると考えられる。現代の情報化社会ではさまざまな情報があふれている。災害についての、自分の命を守るための情報が数多く存在する。しかし、多くのメディアにある情報は玉石混交である。その情報は今の自分には必要ではない情報かもしれなし、そもそもデマであるかもしれない。このような状況において、自分の命を守るための情報を得るという行為は非常に高度なスキルが問われるように思う。

もし自分が災害にあったとして、例えば避難所や仮設住宅での生活を余儀なくなれた場合、どういう行動をとることができるだろうか。基本的に、特に日本社会においては、社会的な規範を重視される。それはすなわち、公共の場では自分のことももちろんだが、他者のことも尊重し、お互いに助け合わなければならないという規範である。これはもちろんそうなのだが、災害の場において、いわば自分はこれから先どうなるのかという先行きが見通せない状況下では、どうしても他者のことより自分のことが優先されてしまう。これは致し方がないと思われる。しかしながら、先の阪神淡路大震災でも東日本大震災でも被災された方々が、それぞれお互いに助け合いながら困難を乗り越えようとしている姿が映し出され、多くの人の共感を呼んだこともある。すべての場合で一概には言えない。協力される場合もあるし自分を優先されてしまう場合もある。

それでも、阪神淡路大震災では、自然発生的にボランティアが増加した。それだけ、映像などから流れてくる現地の様子が、強烈なインパクトを与えたと思われる。自分が被災しているのにも関わらず、他者のための行動を取ることができるのは素晴らしいことだと個人的には思う。今では、ボランティアは当たり前のようになされ、行政でも管理が行き届くようになった。そういう意味では1995年は「ボランティア元年」と言えるかもしれない。


もうひとつの視点で、自分が仮に被災していないとして、では自分が被災者のためにどのような行動をとることができるかを考えてみたい。まず考えられるのは物資を送ることであったり、募金や義援金を送ることが挙げられる。自分の立場上、直接的な支援ができなくても間接的に義援金を送るなど、自分に合った支援のあり方がある。それは個人の自由意思にゆだねられると考える。しかし、実際に社会においては「誰しも人を助けることが当たり前」「募金することが当然である」という命令的規範が社会には存在している。これが人によってではあるが、強制されてしまう場面があるかもしれない。心情的にはなんとかして力になりたいと思うのが自然である。しかし、それがどうしてもかなわない場合がある。その人の立場であったり環境であったりと必ずしも、誰しもが援助行動を取れるわけではないという認識をもつことが重要である。

さらに、この社会には「自己責任論」なるものが存在している。それは、被害にあった原因はその人個人にある、その責任はその人に帰属されるべきであるというもの。これは、「世界公正仮説信念」が関係している。「世界公正仮説」は、因果応報的な考え方で『良い行動をしている人には良いことが起こり、悪い行いをしている人には悪いことが起こる」という考え方。ある意味確か仏教から来た考え方であったと思うのだが、実際にはこのようにはならないことが多い。その人がいくら良い行動を取っていたとしても、ある時突然に災害や事件自己の被害に遭うことがある。これはどうしようもない。しかし、人はその被害者に対して、被害に遭ったのは自己責任であるとすることで、自分の身の安全が保障される。自分が良い行いをしていると思っているとして、そんな自分が被害に遭うとしたら、公正な世界であるとする信念が瓦解ししてしまう。だから、何の落ち度もない被災者や被害者に対して、その結果の原因の責任はその人個人であると考えてしまう。これほど愚かなことはないと思う。こんな馬鹿げたことがあってはならないとも思う。しかし現実にはこのようなことが数多く存在することに私たちはどう捉え、考えればいいのだろうか。

さらに、この情報化社会ではデマや誹謗中傷がインターネットを介してなされる。この背景にあることのひとつとして、当事者意識の欠如が挙げられる。SNSなどでは、いわゆる承認欲求として、いかに他者からの承認をえることができるかという愚かな行為が災害などの場面で必ずといっていいほど見受けられる。これは、被災の現場で、必要な情報を得ようとしている人々の妨げにしかならない。こういう当事者意識の欠如が多くの避難行動や支援活動の妨害になっている現状の問題がある。SNSでは、情報の拡散がよく叫ばれる。それはもちろん理解できるのだが、重要なのは”どのような情報を拡散させるか”である。人は誰しも、感情を有しているので共感を得るような情報を発信してしまいがちになる。それが良い悪いではなくで、状況によってそれがさまざまな弊害につながる恐れがあるということ。自分が現地の状況を目にして「大変だ」と発信するのはいいが、それだったら被災者のための例えば物資の供給情報であったり、避難所の情報であったり、大手携帯電話の通信に関する情報を拡散させた方がよっぽど良いと個人的には思う。それもひとつの当事者意識の欠如であるといえるかもしれない。

ここまで、「災害」について考えてきたが、自分がこのような高尚なことを書いておきながら必ずしもそういう行動をとることができるわけではない。もちろん、そういうことが重要であるし、そういう行動を取らなければならないと個人としては思う。しかしながら、そういう命令的な社会規範の呪縛にとらわれるのもまた違うように思う。自分の行動は自分の自由意思にゆだねらる。それを基にして、いかに自分が助かるかということと、いかに他者に対して自分ができることはないか、あるとすればそれはどのようなことかを考えておくことは重要であると思う。そういうことがあって初めて、「災害」について自分事として、当事者意識で考えることできるようになるのかもしれない。近年、「ソーシャルキャピタル(社会関係資本)」という言葉をよく見るようになった。これは、社会的資源として、「自助・公助・共助」という考え方を基にして、災害などのさまざまな困難に対峙する・乗り越えるというもの。このような考え方が正しく理解され、多くの人々が災害に対して適切に恐れ、備えておくことの重要性についてのヒントになると思えてならない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?