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映画『ペルシャ猫を誰も知らない』を観て音楽がさらに好きになった話

イランの映画監督Bahman Ghobadi(バフマン・ゴバディ)の2009年の映画”No One Knows About Persian Cats”(邦題:『ペルシャ猫を誰も知らない』, Kasi Az Gorbehaveh Irani Khabar Nadareh)を今さら観た。amazonでは中古DVDにプレミア価格がついていて、普通ならDVDボックスが買えるぐらいの金額を支払って購入した。

予告編冒頭から"In Iran, there are laws against blasphemy, free speech & rock and roll."とあるように、音楽の表現の自由を掴み取るために戦い、海外での活躍を夢見ながら、同じように苦悩するバンド仲間を集めていく。そんな内容。
僕は必ずしもこの作品を映画的に素晴らしいと思っているわけではないのだけれど、とにかく音楽の見せ方として、あるいはストリートの現状の伝え方として、つまり文字通りのmediumとしての映画というものについて書き残しておきたい。
僕は気に入った映画は日本語字幕と英語字幕で2回観るので、今回もそれに従った。

*当たり前のようにネタバレしてます。

ちなみにどの楽曲に一番食らったかだけ先に書いておくと、僕はヒップホップ好きとして(そしてメジャーアーティストへの楽曲提供なんかも経験している身として)、それはもちろんHichkasの楽曲”Ekhtelaf”でした。

1. 同時代性を伴う音楽カタログとしての映画

1.1 音楽カタログとは

この映画は第一に音楽カタログであった。観客たる僕らは、バンド仲間を探すという文脈の中で、主人公とたちと同じタイミングで現地のさまざまなアーティストたちを紹介されていく。映画的には「この音楽性のバンドからメンバーを引っこ抜いたところでお前らのスタイルじゃ使いこなせねえだろ…」としか言いようのない多様なアーティストが出てくるが、全てはナデルによる「きっと役に立ってくれる」の一言で正当化される。
言い換えれば、ストーリーとしては「まあその程度のノリ」だと思ってくれればいい。というのも、そもそもこの映画自体、主人公にして実在のバンドTake It Easy Hospitalのアシュカンとネガルが実際にイランを脱出するまでの2週間足らずで撮影されたものなわけで、周到なストーリーなど望むべくもない(ちなみにTake It Easy Hospitalの現在のSoundCloudでのフォロワー数は489人で、なんと僕のそれすら下回っている)。

より純粋な"音楽カタログ"について書くとすれば、似たようなことを、より上手に、かつ網羅的にやっているサービスとして、ミュージカルタイムマシンサービス『Radiooooo』がある(アプリにもなっている)。これは国と年代を選択すると当時の楽曲をシャッフル再生してくれる、シンプルながら非常に活用可能性の高いサービスだったりする。
ただ、音楽、あるいはそれに限らず表現というものは全般的に、常にその時代の文脈や問題意識に基づいているもので、そういった同時代性(ここでは contemporaneity: the quality of belonging to the same period of time = 同時期に所属することの特性 [weblio] と呼ぶことにする)なしに音楽を「純粋な音素の組み合わせとして楽しむこと」は、必ずしも「純粋な音楽の楽しみ方」とは異なるのではないかとすら僕は思っている。これは異を唱える人も多いかもしれないけれど、音楽をはじめとした表現(表現とは"何か"を表現している)からメッセージ = "何か"を取り除き、その表面だけを受け取ることを「純粋な楽しみ方」と呼ぶのはあまりお勧めできないように思う。

この映画は一部で「ただのミュージックビデオの繋ぎ合わせ」という意味での音楽カタログに過ぎないというような批判がされている。これに関しては、確かに疑いようもなく音楽カタログである。なぜなら、DVDでメニューを開くとチャプターがアーティストのパフォーマンスごとに区切られている。つまり、作者側で明確に意図されたものであることは間違いない。
しかし、単なる音楽カタログではない。この映画は「同時代性を伴う音楽カタログ」なのである。もう少し平易な表現をするなら、この時代・この環境においてこの音楽が生まれたという原因と結果の関係を(一応の)ストーリーに乗せた音楽カタログだと言い換えることができる。それがまさに、観客にcontemporaneityを理解させつつ同時に音楽にも触れさせる装置として動作している。これこそが本作の目的である。

2.2 日本における抑圧

今でもネットを漁れば、絵(特に二次元とか)では表現の問題が頻繁に取り沙汰され議論に登っている。ただ、僕はそこに決して明るくないので、あくまでも音楽の話で考えていきたい。
昔ラジオでRhymester(日本語ラップ最初期から活動するヒップホップクルー)の宇多丸がこの映画を評論するなかで言っていたこととして、当時(もちろん今もなんだけど)日本のクラブシーンは風営法と切っても切れない関係にあった。問題は非常に簡単で、ラジオでの宇多さんの言葉を(覚えている限りで)引用すると、「いい歳の大人が24時過ぎてクラブで音楽聞いて踊ってると警察来ちゃうんだよね」という話。僕も当時は現場 = クラブでDJやライブなんかを積極的にやっていたので、風営法は本当に身近な話題だったし、知り合いがライブ中のガサ入れで大変な目にあっただの、オーナーがもうやってられんから店を潰すだの、色々な話が聞こえてきた。僕らはみな、周辺地域の迷惑にならないようクラブの外での振る舞いには本当に気を遣っていたし(そしてクラブより明け方の居酒屋の方が地獄だった)、だからこそなぜそれが取り締まりの対象になるのか全く理解できていなかった。
ZEEBRAを筆頭とした「クラブとクラブカルチャーを守る会(CCCC)」の働きかけもあって風営法は改正され、クラブも条件付きで深夜営業ができるようになった(詳しくは『Zeebraはなぜ、風営法の改正運動に取り組んだのか? 人生を変えた「17歳の原体験」』あたりをあたってほしい)。

風営法にしても「今は改正された」とかそういう問題ではなく、この日本においても表現に対する制度的な抑圧というものが確かにあって、当時はアーティストも客も皆がその不条理と闘っていた。だからこそ、当時の日本語ラップには風営法に対する "voice" がかなり頻繁に出てくるし、つまるところ、やはり音楽は同時代性を理解した上でしか成立しようのない / 楽しみようのないものなのだろうと思う。LINEの既読がつかない寂しさを歌うことですら、れっきとした同時代性を内包している。

2. 音楽の原初的な衝動を再確認させてくれる

2.1 イランの同時代性そのものによる効果

ここまでに書いたとおり、どこの世界にも自分たちではコントロール不可能な抑圧や不平等というものが多かれ少なかれある。そして、この映画内の状況においては音楽による表現という行為自体がそれに該当する。その同時代性を(たとえほんのわずかな片鱗に過ぎないとしても)感じてしまったがために、僕はそこから始まる音楽パートにひどく食らってしまうのであった。

2.2 楽曲Hesar Na (Nikaein)

たぶんだけど、現地語のアルファベット表記であるNikaeinを英語的に書いたのがNik Aeen Band(ただしそのあとARIAN NAEINI Bandにしてるっぽい)で、曲名はHesar Naだと思う。

牛小屋で繰り広げられるヘヴィメタルの演奏(ただし本人たちは最近だいぶポップ路線に変えたと述べている: "We used to do a lot of heavier stuff before, but now it's more Farsi and we've made it to sync with our culture to attract the masses.")、イントロでまるで試合開始のゴングかのように入る牛の鳴き声、この異様な組み合わせ。
楽曲のタイトルは英語で"No Fence"、リリックはド頭から"This is the voice of a man whose hopes don't live in a dead end."(この曲は希望を決して捨てない奴の放つ叫びなんだ)であり、悪臭漂う牛小屋でゲロを吐き散らし身体をぶっ壊しながらでもやり続けることが彼らにとって当然の生き方なんだろうと思う。どんな環境でも音楽をやらずにはいられないそのマインドは最高すぎると言わざるを得ない。

ただ、留意することがあるとすれば、この曲は確かに表現の自由への渇望ではあるにせよ、一方で持たざる者たちの叫びという感じではない。というのも、メンバーのひとりであるAfshinはこの農場のオーナーの息子であり、食事どき以外ひたすら続く彼らの"騒音"に従業員たちは牛の糞より困っており、挙句に牛は痩せこけ、ついには牛乳を出さなくなる有様なのである。

2.3 楽曲New Century (The Yellow Dogs)

次は実際にThe Yellow Dogsとして活動するバンドの楽曲"New Century"。公式サイトを読むとその後はアメリカでのライブなんかも入っていたらしい。僕個人としては、"ドラムのやつ"の雰囲気が良すぎると感じているのだけれど、多くの人にとっては"リッケンバッカーが好きすぎるやつ"の方が印象的かもしれない。

拾ってきた資材を組み合わせた自作のほったて小屋でそんな大層な防音ができるはずもなく、彼らもまた常に通報の危機と戦いながらの音楽活動となっている。
もちろん映画的に真っ先に言いたくなるのは「親父が10分だけだって言ってんのに何をだらだらと隣の家の"暇つぶしに通報してくるガキ"への文句を垂れているのか、さっさとやれ」っていう話なんですよね。映画でよく、強大な敵の前や、時間的に限られたはずの場面でだらだらと愁嘆場を演じることに対しては大きな批判がある。だがちょっと待ってほしい。このだらだらは(ステレオタイプな言い方をするけど)かなりバンドマンっぽくて、僕は正直笑ってしまった。この映画においてミュージシャンはその同時代性を担保すべく、ほとんどのシーンにおいて不条理に立ち向かう戦士として描かれ続ける。でも、ここまでこの映画を観た上で僕が確信していたこととして、(遠く離れた地にいるとはいえ、)彼らも同じ音楽好きとして、僕らと同じようにどこかに必ず"どうしようもないだらしなさ"みたいなものを持ち合わせているはず。このシーンには、この映画における数少ない"バンドマンのリアル"が描き出されている感じがして、これはかなり最高なんですよね。

2.4 楽曲Emshab (Mirza)

クッソいい。クソほどにかっこいい。本編にも出てきたババク率いるMirza(ミルザー)の楽曲Emshab(ちなみにApple Musicを見る限り、現地的な表記はMeerzaのEmùshabっぽい)。
この曲は公式のアップロードがないので映像は貼らないけど、どちらにせよ省略されてるイントロを含めてフルで聴いた方が絶対にいい。アウトロもかなりアツい。

ということでSpotifyを貼っておく。

途中のシーンで確か「ハゲのババク」なんて言い方もされていたけど、それはこの映画におけるcontemporaneityの適用先、つまりは表現を渇望している対象が決して若者だけではないことを意味しているんだと思う。もちろん、"非若者的存在"をハゲに担わせることがポリコレ的にどうこうみたいなことはあまり言いたくないが、僕自身それを認識した上で書いているということだけは書いておく。僕は今現在の我々が抱える同時代性を過去のトピックに対して遡及的に適用することをあまり好まない。

3. ヒップホップの話

ここからはヒップホップの話をひたすら暑苦しく書く。とにかく食らいまくったので。

3.1 楽曲Ekhtelaf (Hichkas)

本作においてラッパーといえばもちろんHichkas(ヒッチキャス = Nobody)である(ちなみに気づいていないかもしれないが、Nikaeinにもラップを入れている人はいた)。ヒップホップ好きなら、ナデルとHichkasが話しているところから曲の終わりまで、日本語と英語の両方の字幕で10回ぐらい観てほしい。

ちなみに、HichkasはYouTubeの登録者数も5万人を超えており、これは僕のそれの500倍にあたる。

まあ本当に典型的なリアリティ・ラップ、あるいはいわゆるギャングスタ・ラップの一類ですね。その多くは「ストリートの現実を伝える」ことを目的としていて、そういう意味でもこの同時代性にはっきり合致したスタイルだと思う。

ちなみに、日本語字幕ではすごい変な訳で「ラップ・コンと呼べ」って書かれてるところがあって、これは日本語訳の人がヒップホップ的な文脈を理解できていないと思う。というのも、英語字幕では"First of all, not a rapper, but rap singer!"(ラッパーじゃねえ、シンガーだよ)となっていて、これだとかなり理解できる。というのも、この言い方っていうのはラッパーが受ける典型的な批判の一つである「ラッパーは歌も歌えず楽器もできないんだからミュージシャン名乗るんじゃねえよ」ってやつを受けてきたが故の発言だろうと思う。それは僕や周りの友人たちも食らってきたことだからよくわかる。
でもそういった批判っていうのは、そもそもヒップホップの文脈からすると根本的に的外れなんですよね。ここではっきり書き残しておくんだけど、ヒップホップ、特にラップっていう表現方法は、どんだけ金(=音楽機材)がなくても、どんだけ知識(=音楽理論)がなくても、自分の身体一つで成り上がっていけるところに最高のかっこよさがあるんだよ。

あとね、これ完全に蛇足なんだけど、リズム感ないとラップもDJもできないんで、普通に立派なミュージシャンですよ。

3.2 ロックとヒップホップの対比

本作においてロックとヒップホップが対比的に描かれるとはまさか思っていなかったのでかなり驚いた。もちろん本作において"Hip-Hop"という単語は(僕が見落としていない限りにおいては)おそらく出てきておらず、あくまでもペルシャ語ラップ(Farsi Rap)などと表現されているわけなんだけど、本人のマインドで一瞬にしてそれだと確信できる。

ロックとヒップホップの対比という構図を持ち出したのは、Hichkasの活動はそれまでのアーティストのそれとはいくつかの観点で全く異なっているから。第一に、彼は建設途中で廃棄された鉄骨ビルのようななんだか随分高いところで、テヘランの街を見下ろす形で音楽を鳴らし、あるいは叫んでいた(ちなみに、ナデルが鉄骨を登りきったとき、Hichkasやその仲間たちがやっていたのがいわゆるサイファー = 街なかでラッパーたちが輪になりフリースタイルでラップをする一形態)。
もちろんそれはミュージックビデオを撮影するためだったわけだが、そこまでにさまざまな人たちが創意工夫により人々や権力の目から逃れ、許可を取るまでは決して人前に姿を表そうとしないで活動しているのとは正反対のものとして描かれる。

それについて、彼は次のように述べている(画像はYouTubeのオフィシャルトレーラーから)。

YouTube上の予告編"NO ONE KNOWS ABOUT PERSIAN CATS - Official Trailer"より

"If we sing underground, the sound won't go past the floor."
(地下で歌ってたって、誰にも届かねえだろ)

ここね、マジでやばすぎるのよね。かなりヒップホップなんだよね。

先にも書いた通り、アシュカンをはじめとしたロックンロールのアーティストたちが陽の光から隠れて活動せざるを得ないのとは対比的に、Hichkasはストリートに声を届けるためその地に立っている。自分たちが生まれ育った世界の外に羽ばたこうとするロックと、一方で生まれ育ったストリートに根を張るヒップホップ、それぞれのマインドが対比的に描かれているのが本当に最高と言わざるを得ない。

もちろん(これはかなり蛇足的に書いておくことだけど)、ロックが地元に還元しないとも言っていなければ、一方でヒップホップにもストリートから抜け出したいという強い思いがある(たとえばBarkもKawasaki Driftで「また誰かが呟く この街から出れない」っていってる)。…てかなんか分かんないけど、ウランバートルで地元のラッパーにEMINEMのYouTube上のMVから音源を引っこ抜いてまとめただけのゴミみたいな海賊版アルバムを$5で押し売りされたのを思い出した。ストリートではみんなそれぞれの方法でハスリン(hustling)しているのだ。

3.2 ヒップホップの役割

ナデルはHichkasにも国外脱出を打診する。ちなみにここも日本語字幕では割愛されているけど、英語字幕だと"It's an opportunity not to waste. A couple of guys are going to London and I'm helping them out. They are short of a rapper" (こんなチャンスはないぜ。(ミュージシャンを)2人国外に出すのを手伝ってて、ラッパーが足りてないんだ。)と、Hichkasをメンバーとして勧誘していることがわかる。ちなみに当のネガルやアシュカンに相談したとは全く思えない。勝手に「最高のラッパー」を勧誘している。さすがはナデルである。

しかし、Hichkasは以下のような理由で話を断ってしまう。

"For me, there's nothing like outside here because what I speak of is for heart of this place."
(ここにしかないものがあるんだ。俺たちの言葉をこの街の芯まで届けたいんだよ。)

これは日本語訳の「海の向こうの外国が俺たちの出口じゃない」っていうのも悪くない。悪くないけど、「俺らにとっては、海の向こうの世界が目指すゴールってわけじゃないんだ」ぐらいにしてくれるともっとわかりやすくなるんだけどね。

何より、彼は自分たちのやっていることを"Farsi rap"と称していて、これは字幕同様に「ペルシャ語ラップ」くらいに訳すしかないんだけど、実際には次の発言で"What does Farsi mean?" "Means it's for this place."(ファルシってのは?この街のためのラップってことだよ。)と説明していて、彼がテヘランの街や人々に向けて歌っていることをはっきり意思表示している。
だから彼にとっては、地元に根ざさず海外に行くなんて、そもそも音楽をやる目的からして考えられないことなわけだ。

このシーンにおいて、Hichkasのヒップホップ・マインドっていうのは、やっぱりブロンクスとかの中心のヒップホップと全く同じように、1. ストリートの現実を、2. 自分が生まれ育った世界に伝え、3. そして意識を変えていくという3要素で成り立っている。
現に、彼の発言には繰り返し「目覚めさせる」っていうような表現が出てくる。たとえば会話の中でも"Just stand up here and screaming so everything wakes up." (ここから大声で叫んで、街を目覚めさせる)、あるいはリリックの中にも"Everyone is a wolf, wanna run like a sheep? Let me open your eyes and ears." (誰しも本当は狼なのに、羊みたいに過ごしたいのか?俺が気づかせてやろうか)というような表現がある。これはすごくヒップホップ的ですね。
ヒップホップ最初期から脈々と続く役割のひとつとしての、声なき声を伝え、人々の意思を呼び起こすというまさにそれを担おうとしている。言いすぎだって怒られるかもしれないけど、1980年代にPublic Enemyが政治や社会への怒りを込めたラップで黒人コミュニティの平和や団結を歌ったのと同じものが垣間見れるように思う。

今回の楽曲Ekhtelafはかなりギャングスタラップっぽいので、

"Look at the gap between us. It's not gravity that makes the world spin. Money makes the world go around. Today, it's money first, god second for everyone, peasant and boss."
(俺とあいつの差を見ろよ。世界を動かすのは重力じゃない。カネなんだよ。農民だろうが上司だろうが、みんな金が第一、神は第二だ。)

"Stop wishing, it's no use. Wanna sleep? Look at these nightmares, then. Let's curse this world together. You're blind not to see vanity all around, a poverty and prostitution on the street."
(願ったって無駄だ。眠たいならこの悪夢を見ろよ。ともにこの世界を呪ってやろうぜ。もしこの街に蔓延る虚栄、貧困や売春から目を逸らすなら、お前には何も見えていないよ。)

みたいなのが多いけど、特に資本主義をベースとした格差社会に対して下から声を上げるこの感じは、英訳版の歌詞を全部貼って全訳したいぐらい全部が僕の好きだったヒップホップのマインドなんですよね。

3.3 ヒップホップとストリート

僕はロックに明るくないのでヒップホップのことばかり書くけど、ヒップホップに心酔する人たちにとって、"ストリート"というのは本当に大切なものだったりする。Hichkasも、"Everything's been here from making money to falling in love and the friendships." (仕事から恋愛、友情まで、全部をストリートで経験した)っていうように、ストリートで育ったことを明言している。

ヒップホップはストリートカルチャーとして、「多かれ少なかれストリートに育ててもらった」という意識をもつ人が他の音楽より明らかに多い。たとえば僕なんかも、生い立ちとしてストリートにいたわけではないけど、現在の非常に最低限の社会性をもつに至ったのは他ならぬそこで叩き直されたからだし、今でもたまに、僕が"本当にどうしようもないやつ"だった頃を笑い話にされることはよくある。

だから、ストリートに対しての感情としても、今現状として自分や周りが格差に苦しめられているという意味では社会を憎悪しているけど、一方で育ててくれた街に対する恩情みたいなものもあって、つまりは愛憎のどちらもがひしめき合っている。Hichkasが"See the streets and roads from up here. So we can say that this is Tehran! You know what I mean? A city that you can die in with pride!" (ここまで来て見渡してみろ。これこそがテヘランなんだ。分かるか?誇りを持って死ねる街なんだよ。) っていう振る舞い。曲の中では神に対して自身をTrash = ゴミと卑下し、アーティストとしてはNobody = 誰でもないと名乗る彼が、自分をそうさせたストリートを愛している証拠でもある。ナデルが彼を"King"と呼ぶのも理解できる。

4. 音楽以外のこと

途中から訳のわからないことばかり書いている気がするのだけれど、せっかくなので音楽以外の面についても少し書いておきたい。

4.1 タイトルについて

作中にもあるとおり、イランでは犬や猫を外に連れ出すことができない。ただ、これだけ不条理に音楽を禁じる国で、仮に犬や猫を外に連れ出すことができないという法律があるのだとすれば、あのシーンでネガルが"This dog is not one of them. It's clean and vaccinated against." (うちの子はそういうのとは違います。ワクチンも打っていて清潔なんです)という言い訳をするのはあまりにも苦しいとは思う。そして特に次のシーンではその件を一切引きずっていないのも謎ではある。

というのは置いとくとして、一方、この国ではアーティストが音楽活動をするにも、(基本的には)地下3階やら自作のほったて小屋やらに籠り、出音を塞ぎ、周囲の目から隠れるしかない。当時のイランにおいて、アーティストと犬猫が同じように抱えていた同時代性を重ね合わせ、『ペルシャ猫を誰も知らない』とタイトリングしたのはなかなかに洒落ているし、個人的にはかなり好きなやり口だった。

イランでは、犬でも猫でも外に連れ出すことはできません。ですが、家の中では猫をとても可愛がります。また、ペルシャ猫はとても高価ですよね。それで僕は、ペルシャ猫とこの映画の若き主人公を重ね合わせました。自由がなく、彼らの誇りある音楽を演奏するためには隠れなければならない若者たちです。それに、ミュージシャンたちの家を訪れた時に気づいたんです。猫たちはアンプの前に陣取り、音楽を聴くのが大好きだってことにね!

https://moviola.jp/persian-neko/staff.html

4.2 ナデルの行いについて

ひたすらに調子のいい便利屋ナデルに対してネガルがそうであったように、僕らもまた彼に対し強く疑いの念を抱き続けることを余儀なくされる。それは彼が口八丁で権威をやり過ごす態度や、何の根拠があって口走っているのかも定かではない口癖「問題ない」などに由来する。こいつがどっかで金を持ち逃げして消えるとか、アシュカンの払ったパスポートと5人分のビザのお金を全て使って実は自分のヨーロッパ向けビザを作らせているとか、最後にはそういうとんでもない裏切りにつながっていくような気にさせられる。

しかし実際は(というか実際のストーリーは)違う。ナデルは本当にコンサートの許可に奔走し、許可が取れなかった時のためのプランBを用意し、パスポートの作成を依頼していた。アシュカンが金に困れば、自分のバイクを売り払ってまで工面した。アシュカンの仲間たちが「あいつは必ず仕事をやり遂げる」「ただしたまに2-3日突然消える」と口々に言っていたとおりのやつだったのである。

ナデルのアシュカンたちへの異常な面倒見のよさは、他の一般人との仕事のときとは明らかに違う態度だった。というのも、たとえばライブの許可が出ないとか、あるいは「aがひとつ足りないけどまあ大丈夫だろう」なんて言ってるおっさんだけが頼りの偽造パスポートの工面ができなかったとか、そういった失敗はこれまでにもあったはずだし、言い方は悪いけどそんなことでいちいち廃人になっていては身がもたない。つまり、もっと別の要因があるはずである。

Hichkasのいるビルを登る途中でアシュカンから電話がかかってきた。"You want to sell your equipment? [中略] If you're in trouble, I'll sell my stuff. It's my obligation." (楽器を売るなんてありえない。それはお前の誇りのはずだ。お前が困ってるなら俺が自分のもんを売る。それは俺の義務なんだよ。)

分かっているだろうが、ナデルにとって本来アシュカンは客である。単なる客が金策に困ったとして、自分の大切なバイクを売る人間などこの世に存在しない。つまり、ナデル、彼こそがアシュカンとネガルの才能を心から信じていたのであり、だからこそその裏返しとして「彼らの音楽を世界に届ける」という自身の役割の不達が確定的となったその瞬間、彼の"糸"もまた切れてしまった。僕にはそう見えた。...現実にいたとしても、なんだかんだ嫌いになれないタイプだ。

5. 最後に

繰り返すけど、完璧な映画ではないとかそういうレベルではなく、話はかなり適当だと思う。しかし、これは予告編で"This movie should not even exist."とあるように、音楽どころかそもそも映画自体が抑圧への反抗に他ならない。そういう意味で、ストリートカルチャー、特にヒップホップが好きなら観ておいてもいいように思う。少なくとも僕に関していえば、改めて音楽というものが持つ力を再確認するとともに、その表現の自由を(他の世界に比べれば割と)享受できているという幸せも感じられた。

僕らは法治国家に暮らしていて、警察あるいはその他の権力により治安が維持されることで安全に眠ることができている。しかし、たとえばBlack Lives Matterの本格的な拡散の引き金となったのは黒人市民に対する白人警官の信じられないような暴力だったし、先も書いたとおり僕らもまた法律により表現の場を奪われる立場にあった。そういった現実とどう折り合いをつけるべきかということについては、立場上ここに書けないようなことを思う日もある。いつだって思うことは自由である。...まあ書くことも自由であるはずなのだが。

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