見出し画像

僕の髀肉の嘆

『髀肉の嘆』

三国志の主人公の一人である劉備。
若かりし頃、劉備は野心と大望を抱き、
天下を駆け回る馬上の人でした。
しかし、
中年になるころには、親族の世話になり、
小さな城の中で
日々をただ過ごしているだけになります。
むなしく費やされていく日々の中で、
ふと自分の太ももをみると、
駆け回っていた若いころにはなかった贅肉が、、、
劉備はそんな現状を嘆きます。

“髀肉の嘆”は本来、
「活躍したり名を上げたりする機会がないのを嘆くこと」
(引用:大辞林 第四版)
という意味で使います。

しかし、
この文章では、また僕自身も、
 「現状に甘んじて、
  贅肉がつくほど怠けたり、
  易きに流れて堕落してしまっていること」
を嘆く意味で使っています。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

僕は自分なりに努力して、
それなりに自制的で
快活な生活を送れるような時期もありました。
食生活に関しても、
お金に関しても、
運動に関しても、、、

しかし、
次第に易きに流れて、
いまいちピリッとしない日々を送るように。
自制心がしっかり働いていたときの快活さが
生活から失われていったのです。



生きていると、浮き沈みは当然あります。
しかし、
今の自分の状態では、
どんどん沈んでいくだけ。

せっかく今まで地道に築き上げ
成長してきた自分から、
昔のダメな元の自分に
あっという間に逆戻りしていく感じです。

なんとかこうとか、
それなりに鍛え上げてきた自分が
贅肉で醜くなっていく感じでしょうか。


このまま
醜い贅肉を身にまとって生きていくのか?
それとも、
引き締まった自分をもう一度作り上げるのか?



そもそも
なぜこんなことになったのでしょうか?

今までの自分が間違っていたから?
築き上げてきたものが
単なる“張りぼて”か
“砂上の楼閣”でしかなかったのか?

そういう部分もあるとは思います。
それでも、
“張りぼて”でなく、
“砂上の楼閣”でもない、
たしかに築き上げた部分もあります。
すべて間違っていたとは思いません。


ずっと昔の、
ほんとにダメだったころよりかは、
ずいぶんと成長できている自信はあるのです。

つまり、
間違ってはいなかったけれど、
足りない部分があったのだと思うのです。



「僕の髀肉の嘆」をきっかけに、
今一度、
自分の足りない部分を見直したいです。

今までに築き上げてきた自分も糧にしつつ、
もう一段、
さらに一段と、
自分を成長させたい。

その成長ができたとき、
ムダな贅肉を落として引き締まった日々、
そして
リバウンドのない自分ができあがるはずです。



なので、
それを目指して、
自分と向き合い日々研鑽したい。
 
「必ず自分の人生を取り戻す。」
そんな決意です。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~



今、自分のなかに
「これが今まで足りなかったのでは?」
というものがあります。

それをこの“note”で向き合い
徐々にまとめていけたらいいなと考えています。

お付き合いいただきありがとうございました。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?