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四月は、魚。

羽海野チカ「3月のライオン」を知っている・読んでいる方は少なくないと思いますが、では「4月の魚」というのはご存知でしょうか?

実は、フランス語では4月1日、「エイプリルフール」のことを、“poison d’avril”、文字通り「四月の魚」と言うのです。でもなぜ、魚なのでしょうか?

もともとフランス(をはじめとするキリスト教暦の世界)では、聖母マリアの受胎告知の日である3月25日が新年のはじめとされ、その後1週間、春分の行事が行われたあとの4月1日に贈り物を交換する習慣があったそうです。それが16世紀に時の王シャルル9世によって1月1日が新年最初の日と定められ、さてではいつ贈り物をしたものか、と人々は困惑。結局、多くの人は新しい新年に贈り物の効果をするようになったものの、一部の保守的な人たちは4月1日の贈り物を続けたのだそうです。そんな人たちを若い人たちがからかい、空の箱を贈ったり、存在しないパーティの招待状を送ったりしたのが、エイプリルフールのふざけ合いの習慣のはじまりだったとか。

そして、肝心の「魚」の件については、細かな点については諸説あるようですが、鹿島茂『フランス歳時記』(中公新書、2002)によれば、3月末に黄道十二宮の双魚宮(魚座)のところにあった太陽は、4月1日にはすでに白羊宮(牡羊座)に移動しているのに、未だ古い習慣に拘泥している人たちを揶揄して、「時代おくれの人」「時代から取り残された人」というニュアンスで「四月の魚」と呼んだのだそうです。

そんなわけで、4月更新の今回の記事は、「魚」の本について綴ってみます。

実は、魚をテーマにしようと考えたのは、「四月の魚」という言葉があったからではなく、「“さかな”をテーマとする読書会」が開かれるというお知らせをいただいたことがきっかけです。昨年4月、私たち家族も招いていただき参加した、秋田・新屋で開かれたアラヤード・ピクニックの“ビブリオピック”。その際は「発酵」がテーマでしたが、今年は「さかな」がテーマとなりました。秋田名物の魚からつくる調味料・しょっつる(塩魚汁)は、新屋で初めてつくられたとも言われており、今回のテーマ設定となったそうです。

残念ながら今年は新屋まで足を運ぶことはできませんでしたが、主催者の方から「テーマに関する本の選書とその紹介文を」とお声がけいただいたので、1冊だけ選んで寄稿させていただきました。

とはいえ、やはり1冊だけでは収まらないもの。そもそも今回のテーマを最初に聞いたとき、「参加できないけど、選ぶとしたら何かな?」と夫婦で何気なく話しただけでも、ポンポンと本が浮かんできました。原稿を考えているときも妄想が止まらず、メモは増えるばかり。そもそも「さかな」というテーマ、昨年の発酵に比べると一見、具体的ではあるものの、一つの“種”を総称するものですから、その内実ははっきりいって限りがありません。どの魚を想定するのか、生物としてなのか比喩的存在なのか、など軸をどこに置くかによって無限に考えが広がっていきます。

とりあえず、自分の頭のなかで収まる範囲で、「魚の本」にまつわる徒然を記してみます。

アラヤード・ピクニックのために選んだのは、ロシアの昔話「金の魚」です。

貧しく暮らす老いた漁師と老婆。ある日、漁師の投げた網に金の魚が掛かり、人間の言葉で「逃してくれたら、どんな願いでも叶える」と言う。漁師は金の魚を海に帰すが、老婆は怒り、海に戻ってパンを求めさせる。漁師が金の魚に願いを伝えると、たくさんのパンが。続いて洗濯桶、立派な小屋、御殿……。やがて老婆の尽きない欲望と傲慢が極まって——

昔話に典型の「3つの願い」的な、欲深い人物へのしっぺ返しが落ちの物語です。また、「2匹の魚と5つのパンで5000人の食事を満たした」という新訳聖書のイエスの奇跡のような、豊穣さにつながるイメージも。そしてなぜ最後の願いには、金の魚は無言で去っていったのか——シンプルですが、想像の尽きない物語です。

昔話・民話集や絵本などで数バージョンあり、『エフゲニー・オネーギン』『大尉の娘』などで知られるA・プーシキンによる再話も広く読まれているようです。今回の選書にあたって私が参照したのはこちらの本だったのですが、実は、自分にとって最も印象的だった本そのものは見つけられなかったのです。確か、スズキコージさんの挿画だったと思うのですが(あるいは、雰囲気のよく似たほかの人の絵? 木版にも似た、骨太な線の絵)、金の魚が去って全てを失った二人の哀しき姿が、今も目に浮かびます。

そのほかにまず浮かんだのは、やはり絵本でした(リアルではない、抽象的な魚が出てきますね)。きっとビブリオピックでも他の方が選書したであろう、レオ・レオーニ『スイミー』(好学社、1986でも私も含めて、教科書で呼んだ、劇などもやった、という方も多いですよね)。小さい子供に贈るうえでぜったいに間違いのない、五味太郎『きんぎょがにげた』(福音館書店、1982/今更ながら刊行年を知って驚愕)。

絵本で印象深い1冊としては、マーカス・フィスター『にじいろのさかな』(講談社、1997/我が家にあったボードブック版は2007)が挙げられます。まずは、大切な知人からいただいた本、ということが一つ。そして、不定期ですが、もう数年来開催している友人とのテーマ読書会があります。私の息子もたぶん3歳頃からその場に連れていっていたのですが、6歳のとき、初めて彼が自分で本を紹介した、その1冊がこの本だったのです。他者との関係を改めて考えさせる物語も深みがありますし、造本の美しさもあって、長く大切にしたい本です。

さらに、奥さんとの会話のなかでは、H・メルヴィル『白鯨』、そしてE・ヘミングウェイ『老人と海』がパッと思いつきました。

「クジラは哺乳類」というツッコミはぜひご容赦を。作中でも、その生態が果たして魚類なのか哺乳類なのかについて記述される箇所もあるように、ある種の魚として捉えることに異論はない、と言ってよいでしょう。この作品については、阿部知二訳の岩波文庫を持っていますが、調べてみるともうとうに絶版なのですね。黒と青緑の二色刷の表紙画のインパクトは大きいです(特に上巻のイシュメイル?らしき人物)。この記事を書くにあたって、田中西二郎訳の新潮文庫版を読んでみていますが、確かに訳文の雰囲気でだいぶん印象が異なり、改めて作品を味わい直しています(ただ何しろ長い作品なので、現時点でまだ読了できておりません)。物語の主筋から逸れて博物学的な記述を辿っているところですが、それこそ渦を巻くように引き込まれる最後の展開がどう記されていくのか、読みつつ今から楽しみです。

同じく古典的名著の『老人と海』は、れっきとした魚(カジキとサメ)と人との対峙を描いた物語。確か初読は中学生の頃、新潮文庫版で読みました。こちらもやはり翻訳を変えて、光文社古典新訳文庫版でこの機会に改めて読んでみました。言葉の選び方、ぶ文体、そして組み方なども影響しているのでしょう。以前よりももう少し軽やかな、カラッとした印象で、サンチャゴが漂う夜の海と空が、少し淡い色のイメージで浮かんできました。海を漂うときの、サンチャゴが周囲の世界を捉える感覚、世界の見え方は、陸の上にいる私たちのそれとは全く次元の異なるものなのだろう、ということが読み進めるなかでずっと頭のなかにありました。

続いては、神話・伝説において扱われる魚に目を向けてみましょう。魚は、世界各地の神話・宗教において象徴的な存在として扱われています。「金の魚」のところで、新約聖書におけるイエスの奇跡について触れたように、豊穣さを表すエピソードに登場しますし、そもそも魚をイメージした紋様が、キリスト教団を象徴するかたち(イクトゥス)として受容されているということもあります。

また、旧約聖書の一篇「ヨナ書」は、預言者ヨナが、神の御言葉を伝える使命から逃げ出したことで、海で大魚に飲み込まれてその腹中で三日三晩を過ごす、というなんとも不思議な悔い改めの物語。旧約聖書にはほかにも不可思議なエピソードがたくさん織り込まれていて、いずれ一つ一つ読み直してみたいと思ってはいるのですが、なかなかその機会と時間を得られずにおります。

その旧約聖書で思い出したのは、創世記に記された有名な「ノアの箱船」のこと(創世記6-8)。世界を創造した神は、やがてその堕落する姿を見て悔い、地上のすべての命を滅ぼすことに決める。そしてノアに命じて巨大な箱船を造らせ、「すべて命あるもの、すべて肉なるもの」をつがいで乗せるように告げます。ただ、この「命あるもの」には、地上の生き物、そして空を飛ぶ鳥も含まれていますが(40日の洪水の日、ハトがオリーブの枝を取ってくる場面がありますね)、実は魚をはじめとする水の生き物は含まれていません。なにしろ滅ぼす手段が洪水ですから、水の生き物にとっては痛くもかゆくもないですね。創造主にとって、魚のいのちとはなんだったのだろう。あるいはそもそも、魚は神がつくったものじゃないのだろうか。そんなことを思い浮かべたり。

これに少し関連するかな、と連想したのが、ギリシャ神話や星座における魚のこと。ギリシャ神話における魚、というとまずは魚座があります。これは、怪獣ティフォーンがオリンポスの神々を襲った際に、逃げようとして女神アフロディーテーとその子エロースが水に飛び込み、魚に変身してお互いの体を結んだ姿を描いた星座といわれています。また、同じときにやはり水に飛び込んだ牧神パーンは、元々が半分ヤギの存在。そのため上半身はヤギ、下半身は魚という不思議な姿に変身してしまいます。山羊座は、その姿を描いたものです。

さて、魚座にしても山羊座にしても、その際の「魚」は、いったいどの種類なのでしょうか? 神話物語を読んでも、星座の図を見てもわからない。また、例えば熊、犬、蛇、獅子、それから白鳥、鷲、カラスなど、地上の生き物については具体的な種の星座がたくさん存在していますが、イワシ座、マグロ座、シャケ座、イカ座、タコ座……のようなものは寡聞にして知りません。水の生き物について考えてみると、かに座、うみへび座などは現実の生物とも結びつきますが、例えばくじら座はいわゆる私たちのよく知るクジラではなく、獣様の頭部を持つ架空の生物です。

これは、神話の物語が編まれた時代には、海の世界がまだまだ人にとって未知の領域だったことに関連しているのでしょう。目で見ることのできる地上の動物、また植物については、さまざまな神話のエピソードがつくり出されてきました。一方、水の生き物についてはきわめて曖昧な、あるいは現在の科学的知識から見ればまったく架空といえるような奇妙な描写がなされてきた。つまり神話の記述からは、それが生み出された当時の科学的知識・理解がどのようなものだったか、ということが読み取れるのですね。

ただ、そんな世界各地の神話のなかで、「鮭」が非常に重要な役割を担うおもしろい神話があります。現在のアイルランドに伝わるケルトの神話に、それを食べると途方もない知恵を得ることができる「知識の鮭」というものが出てくる。その力を授かった英雄フィン・マックールの物語。「確か、ケルト神話にシャケの話があったような……」という曖昧な記憶で情報を探っていたら、ケルト神話と鮭をめぐるこんな素晴らしい記事がありました。私の本の記事はいつも上っ面をなぞるだけですが、しっかりと丁寧に掘り下げていった文化史は、本当におもしろいですね。

本の話、というよりも神話の話にだいぶん寄ってしまいました。最後に少し戻って、おもしろい魚の本を1つ。

黒田弘行『きみのからだが進化論1 むかし、わたしはサカナだった』(農文協、1994)は、表紙の絵を見て「なんだか楽しく読めそうな絵本」と思って手に取りましたが、開けてビックリ!な1冊でした。ユニークなイラストとテーマの切り口で、楽しく読めるのは間違いない。でもそれだけじゃなくて、楽しさ・おもしろさから入って、脊椎動物の進化の過程についてきちんと学ぶことができるのです。「え、人間がサカナだったって?」と疑問に思って読み始めても、最後まで辿るとなるほど納得。このシリーズ、他の本も読んでみたいです。

そして〆にもう一つだけ、まさにこの4月のBRUTUS(No. 867)では「おいしい魚がたべたくて。」という特集がありました。立派な鯛が中央に一尾、春らしい華やかな表紙です。魚の種類では、アジ、シャケ、イワシ、鯛、ウナギ、鯉、マグロ、ニシン、サメ、ウツボ、サバ……調理法も焼き魚、フライ、煮魚、刺身、寿司、天ぷらから鰹節、いりこ、イクラや筋子、くさや他の発酵系、缶詰などなど、とにかく多種多様な角度からおいしい魚が取り上げられています。魚愛に溢れたコメントも、各界の著名人からなんとコツメカワウソまで! 私たちの日々の生活が魚によってどれほど豊かになっているか、を実感できる特集です。最後に1見開きだけですが、漁獲量と資源としての魚をめぐる漁業の危機・課題について触れられています。対談に登場している水産学者・勝川俊雄さんの著書も、魚のことを考えるうえではぜひ読んでおきたいものです。そして、このおいしく豊かな食文化を末長く守り、楽しんでいきたいですね。

今宵はやっぱり、おいしい魚が食べたいです。


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