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「語り」について潜る夜

今回の記事は、先月参加した映画の上映会について。ふだんの本にまつわる記事からはややズレますが、やはり本へとつながる連想もありますので、ここに記しておきたいと思います。

半月ほど前、「酒井耕・濱口竜介監督 東北記録映画三部作上映会 #2 :『なみのこえ新地町』『うたうひと』」というイベントに参加してきました。

主催者である友人から声をかけてもらったのが元々のきっかけでしたが、イベントの根底にあるテーマが「対話」「語る」「聴く」。これはぜひ映画を見て、考えて、話をしたいと感じ、ぜひにと思って申し込みました。

上映に先立って、「語る」と「聴く」をめぐる主催者の2つの経験を聞いて、このテーマについてじっくり掘り下げる意味を改めて考えつつ、上映開始。

上映された映画は、「なみのこえ 新地町」「うたうひと」(共に2013)。濱口竜介・酒井耕監督による東北記録映画三部作の後半部です。「#2」とあるように、今回の上映会に先立ち、3月には「なみのおと」(2011)、「なみのこえ 気仙沼」(2013)の上映会が開かれました(こちらもぜひ見たい)。2011年に起きた東日本大震災をきっかけとしながら、震災という出来事・その風景ではなく、そこに生きる人々の対話を、声を、丹念に拾い続けたドキュメンタリーです。

2本の映画、トータルで220分を超える映像のなかに、11組の対話(一部は1対1ではなく、多数での語り)が登場します。夫婦、同僚、友人、親子、また監督との対話など、そこにはさまざまな立場、かたちの「語り」と「聴く」があります。一つ一つのエピソードに深く心を抉られ、しんみりとし、やるせなさを感じ、そして時に心より笑い。感じたこと、考えたことをそのまま記していくとまったくまとまらないので、「語り」という観点に絞って綴ってみたいと思います。

「なみのこえ 新地町」の、工場の若社長(当時30代後半)と酒井監督との対話。前半は、一被災者であり家族の中心である立場と、任意だけれでも皆を守る責任感をもつ消防団の一員としての葛藤を中心に話が進んでいきますが、やがて話題は、彼のその責任感や、さまざまな行動の軸にあるものに移っていきます。それは、震災よりも前に病で亡くなった、彼の従兄の存在でした。

彼は、生きるためのことも遊ぶことも、すべてその従兄から学んだと言います。もう直接会うことはできないけれど、今なお従兄弟は彼にとって非常に近しい存在で、折々に心のなかで、またときどき直に墓前にて語り合っているといいます。また、その従兄に対して恥ずかしくないように、ということが日々の一つ一つの行動を支える規範となっているようです。

私たちは誰と対話するのか、対話できるのか。普通に考えれば、生きてそこにいる人と、私たちは対話をします。でも実は、「今、そこにいない人」とも対話をすることは可能であり、それは時に、目の前にいる人との対話よりも深いものにさえなり得るのではないでしょうか。

この部分を見ていて頭に浮かんできたのは、アントニオ・タブッキのいろいろな作品たち、特に『レクイエム』『イザベルに』のこと。また、タブッキが亡くなってからおよそ1年半後に開かれた追悼シンポジウムのことでした。「不在」から生まれるものが、いかに豊かな広がりを持っているのか。不在は、たくさんの語り、そして対話を生み出すものである、という認識を改めて強くしました。

「なみのこえ 新地町」の最後のエピソードは、新地町の図書館司書の方と濱口監督の対話。彼女ははじめに自ら「話すのが苦手」と言いますが、インタビューの冒頭、視線がなかなか定まらない様子からも、そのことが感じ取れるようでした。そして、その訥々とした語りで、震災直後の混乱、苦悩について、何事もなく日々過ぎていったかつての日常が失われてしまったことへの困惑が語られます。

やがて司書の仕事に戻ることができ、徐々に取り戻されていく、ささやかな“日常”の積み重ね。すると、「何事もなく、日々過ぎていく」という淡々とした日常が、震災を経たのちに一つ一つ手元に戻ってくることによって、より愛おしい経験として刻み込まれていったのだそうです。

さらに、そうして彼女自身の内面の変化を語っていくほどに、その語りにも変化が生まれてきます。一つ一つ道標を置いていくような濱口監督の問いかけからひろがる対話の力が大きいのだと思いますが、ちょっとずつちょっとずつ、彼女のなかから言葉が溢れてくるのです。

それは、ただ「言葉が出てきた」というのではなく、ぼんやりと考え意識していながらも、まだかたちをとっていなかった彼女の思いが、対話という営みを通して、彼女自身のなかで発見され、確かな輪郭をもつようなものとしてかたちづくられていったーーそんなふうに感じられました。終盤の彼女は、自分のこれからの生き方、人との話し方、関わり方についても、静かではありながら揺るぎのない自信が感じられるように見えたほどです。

インタビューのはじめと最後で、ここまで人の存在がガラリと変わったパートはなかったように思います。ただ、その前の漁師の親子の対話でも、真正面から向き合う、という日常においてはありえない、対話のための特別な場が設けられたからこそ、ふだんは見えることのない腹の底からの言葉、想いが溢れ出てきたように感じられました。対話という営みは、自分自身も把握できていない、自身の内面にある何ものかを浮かび上がらせ、またそれによって思考や行動までも変容させ得るものなのではないだろうかーー多様な対話の営みを見て、そのように感じました。

そうして自信、確たるものを得た彼女は、今後はさまざまな人との対話ができるだろう、と言います。たとえ立場や考えを異にする者どうしであったとしても、丁寧に言葉を交わせば、異なるところを含めてその存在を認め合って、対話をすることは可能だという確信。その様子を見ながら、その鍵は、断片化されない言葉のやりとり、にあるのではないか、と考えていました。

言葉を、対話を、一連のものとして丁寧につないでいけば、折り合わない人とであっても、対話は成立し得るはずーーネットを介して誰しもがインスタントに言葉を発せるようになり、それを各々が自分の見たいように受け取る昨今、短く切り取られた断片的な言葉によって、諍いが延々と再生産される状況を思い浮かべて、短く小さなため息。と同時に、自らの仕事への向き合い方についても改めて考えを巡らせました。

続いて、上映会は後半の「うたうひと」へ。これまでの2作とは一転、東日本大震災とは直接的につながらない、東北地方の伝承の民話の語りに焦点を当てています。

民話、昔話、昔語りというと、「連綿と語り継がれてきたもの」として、ある意味“ほっこり”したものとして受け入れられている部分が、無意識的な部分も含めてあるのではないでしょうか。

しかし、実際の昔語りはそんな生易しいものではなくて、物語のエピソードは昔の人々の現実的な暮らしに根ざした経験から生まれてきていること、しかもそれは客観的な史実の記録ではなく、語り部たち自身が生々しく経験してきていることでもあったのです。だから、昔語りは、それを直に受け継いできている人にとっては必ずしも楽しい、心休まるものなどではなかった。「本当は怖い〜」のような安易なレッテル貼りは避けたいですが、それでもやはり昔語りのなかには、仄暗い情念のようなものが蓄積されている、ということがじわりと伝わってきます。

そして、そんな語り部の話から感じさせられるのは、物語はそれ単体としてあるものではなく、誰によって、どのような場で話されるのか、ということと一体不可分だったということ。形式(物語そのもの)と行為(語り)が一つのものであること。それは、語り部と聴衆の応酬によって初めて成立する物語があったことからもわかります。単にテクスト的な物語という固定的なモノとしてではなく、場とともに経験されるものとして、昔語りは成立していたのです。

語り部たちのそんな物語を聞きながら考えたのは、民話・昔話研究において言われる「昔話の登場人物のフラットさ」のこと。昔話においては、個々の登場人物の内面・心理はほぼ描かれず、物語を進めるための特定のパターン・機能を果たすために奥行きのない存在になっています。それゆえに、世界中で同じようなパターンの昔語りがあり、それが口承で伝わるうえで重要なポイントだった。またそれによって、誰もが語りによって継いでいくことができた、と。

このような昔話独特の論理や仕組みについて理解するには、ウラジーミル・プロップ『昔話の形態学』『魔法昔話の起源』マックス・リュティ『ヨーロッパの昔話ーーその形式と本質』などに詳しく論じられています。いずれもヨーロッパの研究者によるものですが、地域・文化の差異を超えて、日本をはじめ他のさまざまな民間伝承に通じる論理や構造について、深くうなずきながら読めるのではないかと思います。

さて、そんな昔話の論理を想起した、と述べましたが、より正確には、そういう論理や構造を持つものとして分析される対象となった民話や昔話の“限界”のようなものについて、感じ考えていたのでした。

社会の近代化がめざましく進んでいくなかで、急速に変容したり失われていく伝統的な文化。そこに価値を見出し、保持や復活を目指す活動がさまざまな物事について見られましたが、民話のような口承文芸の保存や記録、研究もそのようにして行われてきています。ヨーロッパでも日本でも、20世紀を迎える前後からそうした動きが活発になり、それが先ほど挙げたような体系的な研究として結実してきました。

現在においても多様な伝承物語に触れることができ、また地域や文化を超えて世界中に共通する語りの営みがあるという不思議に触れることができるのは、こうした活動があったからこそ。また、実際の昔語りは、個々人の創意による文芸とはやや別のところにあるもので、定型的な物語という器のなかに、それぞれの語り部の個性が注がれてあるものだった。その器としての物語を、抽出して提示したことが、昔話研究の大きな成果であると言えるでしょう。(※念のため、「器としての物語」というのは、私が勝手に連想したイメージで、昔話研究でそういう表現がなされている、ということではありません)

もちろん、その意義は高く評価されるものだと思います。ただその一方で、語り部の身体、そして語り部と聞き手によって築かれる場・空間を離れた昔語りは、やはり「器」なのだ、と映画を見ながらヒリヒリと感じていました。どれだけ意を尽くし、原話に近いかたちで昔語りを採集・保存したとしても(録音や録画をしたとしても)、それは器の精巧さを増すことはあれ、その内側を満たすことはできない。

採集された物語、またそれを新たに読み聞かせたりして、現在そしてこれから先に広げ伝えていくことは、いずれも非常に意義あることで、もともとの昔語りと比較して劣っている、と考えているわけではありません。ただそれは、営みとして全く別個のものなのです。元の語りに付随していた、語りの場で共有されてきた何かや、語り部の内面から発露するもの。それは、一度記録され、再び語り直される物語から再現されることはなく、逆方向に戻ることはありません。

あくまで私個人の感覚なので異論は多々あるかと思いますが、現代において昔語りを復興させよう(採集・保存された物語を、新たに語る機会をつくるような試みのイメージ)、というのは、何か本質的なところで芯を捉えていないのではないかと感じています。それは、満たされることのない器を、一生懸命に磨いているようなものではないか。もちろん、その器が大事に残されていくこともまた、同じく重要なことなのですが。

では、語りの伝承にはこの先、絶望しかないのだろうかーー上記のようなことを考え、でもどこかチリチリとした違和感を覚えながら、映画を見続けていると、ぼんやりと何かが見えるような、不思議な感覚が少しずつ湧いてくるように感じました。

齢40も半ばを過ぎて、突然体のうちから沸き起こってきた昔の語り。身体は、語りたいことだけを語るわけではない。語られたいもの、語られるべきもののほうが、私たちの意思を超えて、満ちるようにして表出することがある。

車座になって誰かが語り始めると、一つの話が呼び水となって次から次へと生まれてくる物語。語り部の身体が、尽きせぬ物語の泉となっている。人は、身体にどれだけの物語を収めることができるのだろうか。

ーーそんな映画のなかの印象的な場面をつないでいくと、語りという営みそのものの豊饒さや複雑さ、というものに思い至りました。それこそが、器としての物語を満たす、語りの中身なのではないだろうか。そして、そのような営みを継いでいく、広げていくことはできるだろうし、そこにこそ何か希望があるのではないないかーーそんな思いがだんだん膨らんできたのです。

たとえ時代や環境が変わっても、人と人が関わる暮らしがあり、他者と接することによって、さまざまな感情あるいは意識はされない何かが、身体のなかに少しずつ少しずつ蓄積されていく。誰もが、語るべき自分の内面を持っている。農業や漁業を中心とした小さな共同体の生活において、それが語りのかたちとして表れたのが、昔語りだったのでしょう。

だから、現在には現在の、そして未来には未来の、それぞれの語りがあるはずで、それについてよく考えてみるべきなのかもしれません。かつての人たちにとっての昔語りは、娯楽であり、生活の知恵や禁忌など多様な情報を伝えるメディアであり、また語ることによって行き場のない複雑な感情を収めるための装置でもあったのだと思います。「語り」が持つそのような機能が、現在においてもきわめて重要なものであることは、前半の「なみのこえ 新地町」のそれぞれの対話を見ても明らかでしょう。

上映後のクロージングトークで主催者から、「うたうひと」の昔語りを記録している小野和子さんがあるイベントでのトークで、「物語を残すことが目的ではない。語りという営みを復活させたい」と話していた、ということを聞きました。まさに、映画を見ながら感じ考えていたことでした。

映画の最後は、やわらかな日の光が射す空間で、延々と物語が回り、やわらかい笑顔ががたくさん。これからの、新しい「語り」の可能性や希望が、そこに見えるようなエンディングでした。

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