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無職のあいだに起きた実存的閃光

はじめに

2021年2月から2022年4月までの1年3ヶ月、僕は無職だった。定職に就いていないということではなく、完全なるニートだった。副業はおろか生産的なことをほとんどせず、社会的無重力空間に居た。紆余曲折を経て、今月から晴れて社会の構成員として積極的に責任を果たすべく職に就いた。この記事はその「紆余曲折」について記録を残すものである。ワンルームの部屋だけで起こる「紆余曲折」は、社会にとっては微小な一つのタンパク質の変性と安定化でしかない。ただ中心であり主役の僕にとっては形而上学的危機を味わい、実存を照明する閃光のもとに転生したような大きな変化だった。自我で埋め尽くされたマンションの一室での攻防を明け透けに書いていく。

不調からの退職

2020年9月、スマホアプリのプロダクトマネージャーとして働いていた僕は、やる気の喪失と生産性の低下による負のループに苦しんでいた。理由は判然としないが、リモートワークの新鮮さの消滅と怠惰の成長、コロナ禍と政治不安、湿気と薄暗さが充満した住居、恋人との別れなどが影響したと思う。意欲の喪失は仕事だけでなく生活の至るところまでカビのように広がっていった。
原因を切り分けて対処する余裕と能力も無く、負の循環は着実に闇を堆積していった。あるときから頭痛や不眠など身体に影響が出たので病院に行くと、医者から休職するように助言された。適当な病名で診断書が書かれた。5千円くらいする診断書は、それを証拠にして支給される健康保険の傷病手当金から考えると安いが、足元を見られているようにも感じた。
そうして僕は1ヶ月のあいだ休職し、復職はしたが復調はせず2021年1月に退職した。当時のメンバーには迷惑をたくさんかけて申し訳ないとずっと思っている。仕事や人間関係は客観的にも主観的にも悪くなかったが、自分の目の前の(あるいはもっと長くなるであろう)健康を優先させてもらった。

治療と不幸の重力

睡眠薬と抑うつ的な気分をマシにする薬と「無理せず過ごしてください」という医者からのアドバイスが処方され、僕は本当に何もしない日々を過ごした。一日の大半は寝て、あまり深いことを考えないように適当にゲームをしたり動画を観るなどして、ギリギリ"快"の状態をつくっていた。だが自分の内省的な気性は、曖昧に這っている生を抱擁してはくれなかった。傷をちょんちょんと突いては、「結局どこが悪いんだ?」と自己を触診し続けた。かさぶたを剥がし血が流れるような状況が繰り返された。思索は大抵どん詰まり。気分が良くないときの思索はどこに泳いでも不幸に近付いてしまう。抗えない重力が僕を不幸へと吸い寄せ続けた。自分がどこに居るのかすらわかっていなかったが、ずっと奥にある完全な闇の一点にだけは触れるまいと抵抗した。

魂の本性的な動きのいっさいは、物質的な重力の法則に類する法則に支配されている。恩寵のみが例外をなす。

「重力と恩寵」シモーヌ・ヴェイユ(冨原眞弓訳 岩波文庫)

僕がもう少し単純に出来ていたら、半端に自己を信じていなければ、もっと楽に上昇できただろう。現実としては1年弱、負の重力と無重力を往復することになった。傷病手当金と貯蓄があることが実際的な救いとして役に立った。貧困は脳を埋め尽くすので「生活はできる」という安心は生存に十分な手当てだった。

復調と精神の燃焼

明確な瞬間があったわけではないが、2021年の暮れ頃から意識が上空を向くようになった。この兆候を泡にしてはいけない、一陣で終わらせてはいけない、と強く思った。種火を守り育てるように、優しく心に息を吹きかけた。血の塊を剥がす粗暴さを排し、輪郭の無い煌めきを丁寧に撫でた。
当時西洋哲学やサイバーパンクSFに傾いていた僕は、それらから抽出した人間性の欠片たちを種火に焚べていった。古代からSFまで変わらない人間の本性、真善美の追求、螺旋状に連続する社会。自己と他者に対する認知を、仕入れたての知識で更新した。一部には置き換わり、一部にはメタ構造が追加された。マイナーアップデートとメジャーアップデートが同時に起きることはなんと言えばいいのだろう。複雑系の基礎と二階が同時に創られたのだ。僕である灯りは激しく揺らめき、高熱は意識を上昇させた。

酷暑の現実から逃れるために、冷たいイマージュを好んで想起させるなら、僕は君にこう言おう。すなわち、僕は 1 ヶ月前から〈美学〉のこの上なく純粋な氷河の中にいる。〈虚無〉を見出した後、僕は〈美しいもの〉を見出した。そして、僕がどんな明晰な高みの中へと危険を冒して入り込んでいるのか、君には想像できまい、と。

「Lettre du 13 juillet 1866 adressée à Henri Cazalis」ステファヌ・マラルメ 

マラルメの上の言葉や、「脱然貫通」と朱子が言ったような、激しい実存的体験。そこに至っているとまでは言わないが、近しい種類の情動が僕の中で膨張したのだ。
部屋の家具もスマホに入れているアプリもほとんど変わらない。僕以外の誰にもわからない変革が内心で起きていた。ワンルームは透明に燃えていた。

自分を愛するという閃光

改築された認知は自己の扉を再び開けさせた。今まで何度も挑戦しては未遂に終わった「自分を愛する」ことに真正面から飛び込んだ。一つこれまでの挑戦と違うのは、自分を強引に連れ出して血を流しながら断崖に立つなんてことはしない、という温かさがあることだ。愛する子どもに語りかけるように指を、手を、腕を、身体を、優しく抱き締めてやるのだ。
僕は記憶を持ってから現在に至るまでの自分を辿った。無職だから時間はたっぷりある。タイムマシンはゆっくりとシーンを選択した。周りに好かれたいがために嘘さえついていた頃、永遠のような孤独に苛まれていた頃、誠実であろうと不器用にもがいていた頃。時々で差し込まれる親や周りの人々の愛。そして今。
未だに僕は誠実でいようと、理想にわずかでも近づこうと悪戦苦闘している。親も心配してメッセージや果物を寄越してくれる。刺青を入れるほどの確かな夢や目的は無いが、着実に前へ進んでいる。そして今も進もうという意志がある。自分がどうしようもなく愛しく思えた。「いつだってお前は頑張ってたんだな」「振り返ったらそこそこやってるじゃん、悪くないよ」。僕自身は、僕の親友であり子どもであった。誠実や幸福がどっちにあるのかわからずに暗闇の中で指を切っても探り続けている。どれだけの孤独や苦しみがあろうと愛や希望を信じて歩みを進めている。自分が誇らしい、とはこういう気持ちだったのだ。不幸という無限の闇の中心地近くで、閃光が僕を抱き締めて空へ引き上げた。閃光は僕の形をしていた。

 君よ!今は東京の冬も過ぎて、梅が咲き椿が咲くようになった。太陽の生み出す慈愛の光を、地面は胸を張り広げて吸い込んでいる。春が来るのだ。
 君よ、春が来るのだ。冬の後には春が来るのだ。君の上にも確かに、正しく、力強く、永久の春がほほえめよかし‥‥僕はただそう心から祈る。

「生まれいずる悩み」有島武郎 (岩波文庫)

教養への感謝

真夜中の静寂を劈く雷鳴は僕の精神が生み出したが、それまで蓄積した教養(特に直近の哲学)が作用したことは間違いない。僕は認知のノードと補助線を用意してくれた知識に感謝し、学ぶことの重要さを全身の生を持って理解した。
いま勉強がとても楽しい。一つのことを深く知ることで、思考の態度が身につくし普遍性のある手法もわかる。だがそれらのベースにある哲学や思想を以て連関していくことがさらに楽しい。

われわれが到達できる最高知とは、いわゆる「知識」ではなく、「知性への共感」である。

「歩く」ヘンリー・デイヴィッド・ソロー(飯田実訳 岩波文庫)

今までバラバラに存在してた知の点が次々に繋がっていく感覚がある。僕はWikipediaを読むことが大好きで浅い知識ばかり詰め込んでいるのだが、それらも線として繋がり、面を持ち始めた。認知的共感が爆発的に拡大していく。もっと早くこの状態になりたかったと贅沢なことを思う。けれども、ある程度の知識、実際的な経験、他者との関わり、想像力の鍛錬を経たいまだからこそ至った「知性への共感」という境地なのだろう。
これからは積極的に教養を血液に取り込んでいくことを誓った。いまは西洋哲学と東洋哲学、心理学、認知科学、社会学などを通じて、人間をよりよく理解し、よりよく生きるための行動を起こすことを目的としている。
神秘主義や超越主義に没するつもりはいまのところ無い。絶対的なものへの跳躍は誰かに任せておく。僕は「夢見る現実主義者」であり俗物でしかない。

これからの結晶と暫定解

復調を機に、創作活動を再開した。無職中に作ったものでここからリンクさせるものは無いが、詩や短歌を細々とつくっていこうと思う。世界と誠実に向き合いことばを使って結晶化させるという果てのない行動をやり続けたい。ことば遊びというよりはストイックな硬度の高いものとなりそうだが、自分の性として許容したい。
仕事も縁あって始めることになったので、個人のためではなく誰かのために、力を尽くしていきたい。人間が創作という結晶を生み出すためのお手伝いをソフトウェアプロダクトでやっていく。そちらについては別の記事に書く予定だ。(追記:書いた
混乱期を救ってくれた教養も増やしていきたいし、身体的な発散(僕にとってのスポーツ)として機能してくれた音楽もやりたい。こんなにもやりたいことがあるから人生の時間が足りない。いまはとても前向きに「死」を意識している。死ぬまでにやりたいことが死ぬまでの時間以上にあるので、どうしようかと困っている。どういう道順で死のうかと勘案している。多くの哲学者が言ったように、「生きることは死ぬこと」なのだ。
結局何のために残りの一生を使うか決められない。だが、僕はたとえ不器用でも、泥で手足を汚そうとも、時々で自己と他者に誠実に向き合い、わかりきることができない絶望の中でも、閃光を信じて進もうと思う。物理法則も倫理も生きる意味も、暫定解に過ぎない。永遠に手に入らない究極的に善いものへ向けて、拗ねずに手を伸ばす。神がその手を掴んでくれるとも思わない。だが神のような人に学ぶことはできる。人間に生まれたからには不自由な人間として、暫定の生を全うしてやるつもりだ。

ひとまず、僕が死ぬときにはこの曲を流してほしい。自信のある暫定解だ。


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