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平山美智子 東洋と西洋の架け橋 曲目解説

2021年12月14日開催の「平山美智子 東洋と西洋の架け橋」の、パンフレット収録の曲目解説を公開いたします。解説は、基本的に私が執筆しておりますが、そうでない場合は曲目ごとに特記しております。

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平山美智子の人生は、シェルシという存在抜きには語りえない。1905年に生まれ、イタリアで最初に十二音技法による創作を試みたといわれるが、この理詰めの作曲技法はシェルシの資質とは馴染むことなく、結果、精神を病むほどのダメージを齎した。その後のシェルシは、ピアノでの即興演奏を経て、一音を徹底的に聴きこむ方向へと、その作曲方針を変えていく。たとえば、ピアノの低音部の鍵盤を叩きながら聴きこむと、ふとした瞬間にピアノの音に含まれる倍音が知覚されることがある。これを作品へと取り込もうというのだ。ただ、今でこそ20世紀後半でもっとも影響力大きな作曲家の一人とされるシェルシだが、平山が出会った当時、周囲の作曲家は誰も彼を真っ当な作曲家だと評価しておらず、その作品は貴族のお坊ちゃんの手慰み程度と捉えられていた。さらにシェルシは、オンディオーラという微分音程を奏でることが可能なオルガン(これは、日本でオンド・マルトノ普及以前に使用された電子楽器、クラヴィオリンとほぼ同じものであったことがわかっている。シェルシはそのチューニング機能をいわば誤用して、微分音程での即興を行っていたのだろう)で夜な夜な即興演奏を行い、これをアシスタントに譜面へ起こしてもらうことで作品を制作しており、こうした手法も物議を醸すことになる。だが平山は、シェルシが即興演奏を行う真夜中、彼の住居の外で半ば凍えつつその演奏を聴き、音楽に全てを捧げる彼の姿に感銘をうけ、シェルシを紛れもない「本物の音楽家」と認めるに至った。

ジャチント・シェルシ/《Pwyll》

1954年の作曲。オンディオーラを手に入れる以前、シェルシがピアノで即興演奏を行い、これをもとにアシスタントが採譜をしていた時期の作品。この時期のシェルシには、その創作方法ゆえにピアノ作品が多く、こうした器楽作品においても、後の作品にみられる微分音程の使用は希である。Pwyllとは、中世ウェールズ語による神話的物語に登場する、ダヴェドの大公の名。ちなみにPwyllのllに対するウェールズ語独特の発音から、「プイス」に近い読みとなる。

ジャチント・シェルシ/《Ho》

この作品はコラボレイターだったソプラノ歌手、平山美智子が初めてシェルシから受け取った作品であり、他の作品と同様にシェルシが連日連夜オンディオーラという楽器で、長時間に亘り行っていた即興演奏の録音を切り貼りして構成されたと考えられる。
各曲にはテーマとなる1音があり、その音を引き延ばす中で微分音が効果的に使われている。唱法としては、波線で書かれた拡大されたヴィブラート、「G」の子音を多用することによる地声の発声などがある。
楽譜はサラべール社より5曲の曲集として出版されているが3曲目は低声用、4曲目は作曲者が後に「banale=平凡でありきたり」であるとし、演奏をされることを好まなかったため、抜粋で演奏する。(太田真紀)

ジャチント・シェルシ/《Canti del Capricorno(山羊座の歌)》

1962年から72年、そして85年に断続的に作曲された、平山とシェルシの共同作業における最高到達点といえる歌曲チクルス。全20曲からなるこの作品は、20世紀後半におけるもっとも重要な声楽曲の一つであると同時に、長く平山美智子以外の歌い手には演奏不可能な作品として屹立してきた。本日演奏される第4曲はコントラバスとのデュオ。特殊調弦のコントラバスと声が微分音程で干渉する。

ジャチント・シェルシ/《Ko-tha》

1967年の作曲。シヴァ神の3つのダンスという副題をもつこの作品では、ギターは机の上に琴のように寝かされ、弦を両手で爪弾き・叩き演奏される。平山は、シェルシという作曲家のリズム感を高く評価し、「彼は生まれながらのパーカッショニストだった」と語る。

ジャチント・シェルシ/《Maknongan》

低音楽器(チューバ、コントラバスーン、バス或いはコントラバス・サクソフォーン、オクトバス・フルート、弦楽器のコントラバスなど)独奏のための曲。
 先ずG#の周りを半音で上下に(ためらいがちに)動き回る音型と、しばらくして突然現れる1オクターブ上の強い音Aとの対比が1分くらいまでの主な動き。次第にオルガンのストップを急速に変えるような音色変化の場面。そして、時々特徴的な細かいリズム形を挿入しながら、当初のG#からGへ下降し、4分程の曲を終える。音域は、Gから1オクターブ上のAまでの9度のみ。
 これを初めて練習した時は、どう弾いたら良いのか全くアイディアが出ず、平山先生に演奏を聞いてもらったところ、「シェルシの即興演奏の録音を弟子が楽譜にしたものだから、この楽譜を見て即興演奏するくらいでいいのよ。」とおっしゃって下さり、大変楽になったのでした。一応、楽譜通りに演奏するつもりですが。(溝入敬三)

ジョン・ケージ/《18回目の春を迎えたすばらしい未亡人》

1942年、アメリカの声楽家ジャネット・フェアバンクのために作曲。歌詞とタイトルは、ジェイムズ・ジョイスの《フィネガンズ・ウェイク》から採られている。ケージは、1939年発行の、この怪物的文学作品を、発行後間もなく入手しており、その第556ページの文言(そのあまりに特異な内容ゆえに、この本は改版のしようがなく、どの出版社から発行されたバージョンでも、556ページに載っている文言は常に同じである!)を、自在に構成することでその歌詞としている。本来は、ソプラノとピアノのための作品で、歌は3つの音高のみで構成され、ピアノは蓋を開けることなく、終始その筺体を叩いて演奏される。

早坂文雄/《うぐひす》

早坂文雄もまた、平山美智子にとって特別な作曲家である。黒澤明の「七人の侍」、溝口健二の「近松物語」など、日本映画の歴史的傑作の音楽を担当したことで知られる早坂文雄は、1914年、仙台に生まれた。幼時に札幌へと転居するが、16歳時に父親が出奔。次いで母親も亡くなったために、中学卒業とともに、弟と妹を養うため、働きながら作曲とピアノを独習した。音楽における「汎東洋主義」を標榜した創作を続けるが、その途上、41歳の若さで肺結核にて死没する。そんな早坂は、平山とは親同士が従兄姉という間柄にあった。1939年以降、東宝映画の専属作曲家として東京に移り住んだ早坂は、戦時下に音楽を学ぶ平山の精神的支柱となる。1953年、ローマへの留学を迷う平山の背中を押したのも早坂だったという。

早坂に、宿病となる肺結核の診断が下されたのは1942年。10月よりの入院は16か月に及び、市川の病院を退院したのは44年の3月となった。奇しくも、平山の東京音楽学校を卒業と重なっている。退院後の早坂は、佐藤春夫の詩集に作曲し、13曲2巻の無伴奏歌曲集とする計画を立てたが、この計画は実現せず、「うぐひす」「嫁ぎゆく人に」「孤独」「漳洲橋畔口吟」の4曲を、「佐藤春夫の詩に據る四つの無伴奏の歌」としてまとめることになった。「うぐひす」では、楽譜における小節線が排され、音楽を西欧的な拍節感から解放することが意図されている。

林光/《道、子供と線路、空》

林光にとってフルートはとりわけ身近な楽器だった。6歳年長の従妹:林リリ子は、日本フィルの創設に参加し首席奏者を務めた、我が国の女性フルート奏者の草分けであり、林光はリリ子のためのフルート作品を連作する中で育った。《フルート・ソナタ》をはじめ、林光の作品表にフルートに関わる楽曲が数多いのはそれゆえである。フルートとソプラノのための歌曲は3作あり、いずれも谷川俊太郎の詩による。《道》と《子供と線路》は1966年作曲。藝大声楽科出身で福岡にて活躍した声楽家千々岩千春のリサイタル(同年3月4日)での演奏記録があり、これがおそらく初演だと推定される。《空》は1968年の作曲である。

松平頼暁/《歌う木の下で》

宇佐見英治さんの小詩集「歌う木の下で」(わが敬愛する作曲家松平頼曉氏にささぐ)という手書きの詩集の中から、2012年に3篇「すべての猫族がいう」「青いスピノザ」「信州の泉」、2019年に2編「衣」「球」を歌曲のテクストに選んだ。前者は平山美智子さんの90才を祝賀するコンサートのために作曲。平山さんによって初演された。後者は今回(編註:2019年10月開催の「松平頼暁 88歳の肖像」)が初演である。コントラバスとの合奏は平山さんの希望だった。(松平頼暁)

近藤譲/《ボンジン》

タイトルの「ボンジン」は、凡人の意。長年の友人である舞踊家の厚木凡人氏の名から取られている。とはいえ、これはダンスのための音楽ではなく、演奏会用の抽象的な作品である。ここでは、歌詞のない女声は、ひとつの「楽器」として用いられており、その意味で、この曲は、一種の「器楽によるモノディー」である。
この曲でのコントラバスは、ハーモニックス奏法に終始する。私はいつも、コントラバスのハーモニックス音と、アルト ・フルートの低中音域、そして女声の低中音域という 3 つの「楽器」の音色の間に、微妙な類似性と差異を感じている。こ の曲のテクスチャーには、私のそうした興味が反映している。
1985 年に、イタリアの「ポンティーノ音楽祭」で初演(編註:平山美智子はこの初演メンバーの一人である)するために書かれたこの作品は、同音楽祭のディレクター、ラファエレ・ポッツィに捧げられている 。(近藤譲)

湯浅譲二/《おやすみなさい》

長田弘さんから素敵な詩をいただきましたが、全20行のすべてが、“おやすみなさい”で始まっているので、音楽的に一貫して作曲するために、大変難しい思いをしました。
前半は、津波で失われた、人、動物、景色などに対する思いが深く込められており、悲しみと優しさを中心に作りましたが、後半は、これから生きていく、子供たちや動物、自然や宇宙にまで込められた、希望を表現できればと思い作曲しました。
この曲は単なる歌曲というより、歌とピアノが一体となって表現する曲になっています。初演は Music from Japan 主催の「2013年音楽祭・福島」で行われました。また、後に、アカペラの混声合唱曲に編曲し、すでに、東京、福島で演奏されています。(湯浅譲二)

杉山洋一/海に Verso il mare

最後に平山さんにお目にかかった時、今度は平山さんと太田さんのための二重唱を書きますとお約束したのに、そのままになってしまった。それから暫くして、太田さんより平山さんに捧げる作品のお話しをいただいた折、真っ先に頭に浮かんだ風景がどこまでも続く水平線だった。北イタリアのミラノと違い、海のすぐ傍にあって、太陽が燦燦と降り注ぐローマの明るい街並みに、耀く平山さんの笑顔が、あまりに自然に溶け込んでいたからかもしれない。蜃気楼をいただく水平線とともに聴こえてきた音が思いがけず具体的だったから、これは案外、平山さんが直截に伝えて下さったのかもしれない。(杉山洋一)


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