読書メモ5 一人称になりきれないトム・ソーヤー

「これで準備万端だ。あとは道具だな。これはかんたんだけどな」
「道具?」
「ああ」
「なんに使う道具?」
「地面を掘るためさ。おれたちは歯で掘るわけにはいかないだろ?」
「だったら、物置に古いツルハシやらなんやらがあったよ。あれで十分なんじゃない?」
 トムはふりむいてあわれむようにぼく(ハックルベリー、以下「ハック」)を見た。だれだって情けなくて泣きたくなるような表情だ。
「なあ、ハック・フィン、囚人がツルハシだのシャベルだの物置にあった便利な道具で穴を掘ってにげたなんて話、きいたことあるか? おまえにはものの道理ってものがわかってるのかどうかあやしいが、ひとつきいてもいいか? そんな道具を使ってにげだしておいて、ジムが英雄になれると思ってんのか? そんなのは、鍵をわたしてもらってにげるのと変わらないんじゃないか。ツルハシだのシャベルだのなんて、王様にだって使わせないって」
「うん、じゃあ、ツルハシもシャベルも使わないっていうなら、なにがほしいっていうのさ?」
「果物ナイフが二本」
「そんなもので、あの小屋の地面を掘るって?」
「ああ」
「そんなのばかげてるよ、トム」

『ハックルベリー・フィンの冒険 三五章」


小屋に捕らえられた黒人奴隷ジムを逃がす、ハックとトム、その課題を解決する手段で意見が割れる。トムの空想的な美学にハックルの現実的な正論が噛みつく。ツルハシとシャベル、すぐにでも片をつけたいハックに対し、トムは果物ナイフ二本で永遠を刻もうとする。安易な現実にあえて困難を加え、果たし甲斐のある冒険に、噛み応えのある物語にしたがる、それがトムのリアリズム。例えば他人の所有物に手を染めるとき、ハックはそれを「拝借する」といい、トムは「盗む」という。

「ばかげてるかどうかなんて関係ないんだ。正しいかどうかが問題なのさ。きまり通りかどうかってことがな。ほかに方法はないんだ。それ以外はきいたことないし、本で読んだ話でもみんなそうしてるんだからな。いつだって果物ナイフで掘るんだよ。しかも土なんかじゃないんだぞ。たいがいは固い岩を掘るんだ。それには何週間も何週間も、永遠ってぐらい時間がかかるものなんだ」

『ハックルベリー・フィンの冒険』 三五章


 トムの言い分に首肯するであろうドン・キホーテ、「アメリカ大陸」というものを発見した者もまた、スペイン人だった。ハックがアメリカのアダムなら、トムは大航海時代を経て持て余したスペイン人の末裔なのかもしれない。

「これは三十七年じゃむりだ。三十八年かかるよ、トム・ソーヤー」
トムは返事をしなかった。でも、ため息をついて、すぐに掘るのをやめてしまった。それからずいぶん長い時間、なにやら考え込んでいるみたいだった。

『ハックルベリー・フィンの冒険』 三六章


 「三十七年」という脱獄穴の施工期間に、自分の年齢が重なる。三十七年かけなければできなかったことが、一日で実現できるようになったとき、人は皆、それを「技術革新」と呼ぶだろう。では、一日でできてしまうことを、三十七年かけてやろうとするとき――その事業を何と呼ぶかで、今後の人類の行方が占えるのかもしれない(そういうイージーな疑問こそ、AIロボに聞いてみるべきかもしれない)。
 三十五年を「或阿呆の一生」と呼んだのは芥川龍之介だった。彼は右瞼裏でまわる透明な「歯車」に斎藤茂吉の処方したヴェロナァルを運ばせた。結果を必然という赤い小皿に堆積させると、一日0.8ミリグラムのヴェロナァルは五日分で4ミリグラムの白い砂山になる。
 三十七年と三十八年の差、それが一年と十年の差よりも大きいとは思えない常識的なアメリカのアダム。トムが問題にしたいのは結果よりも過程、中産階級特有の生得の自由(先人の努力により与えられた自由)から三十七年を積み重ねて得た個人的不自由を取り除こうとする努力の価値。

「正しいやり方じゃないし、道徳にも反するけど、ひとつしかないだろうな。おれ(トム)もそんなことやりたくはないんだけど、ツルハシで掘って、果物ナイフで掘ったつもりになるんだ」

『ハックルベリー・フィンの冒険』 三六章

 これを「或阿呆の半生」と呼ばせてくれたまえ、聖ルカに扮したマークトウェインよ。果物ナイフの切っ先、そこに湛えられた光を崇める阿呆がそれを半生と呼べば、まだ残り半分が或るのだよ。「ハックルベリー・フィンの冒険は三十一章まで読めば十分」、そう言ったヘミングウェイにもう一度読ませたい、自由を得た黒人奴隷ジムの自由を賭した、三十四章からはじまるトムの無意味な戦い、それは透明な歯車の回転を止めるヴェロナァルという名の白砂のはたらきに等しい。ハックの一人称にだまされるなかれ、トムの無意味の本質を語りきれないハックの舌足らずな英語力。ツルハシの杖に縋らざるを得ない諦念のトム。

「あのな、かんじんなのはツルハシは使うけど、果物ナイフを使ったつもりになるってところなんだ。もしそうじゃなきゃ、おれは認めないぞ。おれはきまりが破られるのを黙って見てるつもりはないからな。正しいことは正しいし、まちがったことはまちがってるんだ。だから、ばかじゃないもののわかった人間なら、まちがったことをやるわけにはいかないんだよ。おまえがツルハシを使って、それを果物ナイフを使ったつもりにはしないっていうならかってにすればいいさ。おまえはもののわからない人間だからな。だけどおれはちがう。おれはもののわかった人間だからだ。さあ、果物ナイフをわたしてくれ」
 トムはちゃんと果物ナイフを持っていたけど、ぼくはぼくの持っていた果物ナイフをわたした。すると、トムはそれを投げ捨てていった。
果物ナイフをわたせっていってるんだ

『ハックルベリー・フィンの冒険』 三六章


「つるはし」より「果物ナイフ」のほうが、時間も空間も、デコラティブかつユーモラスに刻めるはずだ。なぜなら前者は楽園の人間をこねあげるだけの土くれしか掘れないが、後者は楽園のリンゴでウサギをつくりだすことができるからだ――自分だけのきまりをちゃんと守りさえすれば。ソクラテスの弁明に比する、「ばかじゃないもののわかった」ものわかりの悪い人間の弁明に咲く花彼岸花、ミシシッピ川の向こう岸から響いてくる、「ジジダジジダジジダジジダ」、堅い血管を溶かす秋の夕陽を惜しむ盲者中也の虫の声。


 どうしていいのかわからなかった。でも、すぐに思いついた。ぼく(ハック)は古い道具のなかをひっかきまわしてツルハシをつかみ、トムにわたした。トムはそれ(ツルハシ)を受けとると、なにもいわずにすぐに掘りはじめた。
 トムっていうのはいつだってこうだ。断固としてきまりを守り通すんだ。

『ハックルベリー・フィンの冒険』 三六章


 つまり[hack]というアメリカ的一人称が言いたいのは、トムのような人間には、ハックのような「もののわからない」もののわかりのよい人間と、ものわかりのわるい物語が必要なのだ、ということだ。ハックの行為はおのずと冒険になるが、トムの場合はそうはいかない。トムの場合、意識しない限り、それは冒険にも物語にもならないのだ。それは玩具に「悲しき」とつけなければ気の済まない啄木の性分に似て、トムには道具のための道具立てが必要なのだから。

 アメリカのアダムを創造したマーク・トウェイン、アダムよりも先に創造されたトムは、その冒険を一人称で語ることを許されなかった。これがいわゆる「ごっこ遊び」の域から一生抜け出せない、生得の自由を持て余す少年の宿命なのかもしれない。

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